安達生恒『百姓をやりたい:新規就農ガイド』(三一新書 1994)を読む。
30年前の本で、農協(JA)や既存の農業体制から離れた、新規の就農者や新たな肥料の仕入れや販売ルートの開拓の道を進む若者の姿を追う。時代なのか、70年安保闘争で大学を辞め、島根県の山奥にある弥栄村で農業を始めた若者が農村の中核を担っている様子も報じられている。(三一書房ゆえの中核派?)
投稿者「heavysnow」のアーカイブ
ステーキガストのタブレットを見て考えたこと。
昨日、近所にあるステーキガストに出掛けた。
おじさんなので、肝心のお肉の前に、サラダバーとコーンスープだけでお腹いっぱいになった。そこで時間を持て余したので、注文用のタブレットを眺めていたところ、肉厚のステーキの画像が映った。説明文の中の「穀物肥育」という文言が目に留まった。本来草食動物の牛は、消化の悪い草を反芻しながら時間をかけて栄養を摂るので、丸々と脂肪が付く動物ではない。しかし、牛肉の効率的な生産のために、牛にとうもろこしや大豆などの穀物のみを与え、狭い檻に閉じ込めカロリー消費すらも抑えて太らせる肥育場(フィードロット)と呼ばれる場所で、出荷直前の数ヶ月を過ごす。下の写真は、牛肉生産世界第2位のブラジルのフィードロットの風景である。正直、過密で衛生面でも不潔な肥育場にはあまり良い印象はない。
ガストはホームページでメニュー別に「食材原産地一覧」を公開している。細かい数字は掲載されていないが、牛肉はアメリカやオーストラリア、メキシコが多くなっている。豚肉はアメリカとカナダ、鶏肉はブラジルが多い。牛肉は穀物で肥育するためか、アメリカ中西部のグレートプレーンズなどの乾燥地域を多く抱えている国が多い。写真を見るに、草も全くない刑務所のようなところで屠殺を待つ牛の気持ちはどんなだ?ドナドナドーナドーナ♫
origin_gt『フレッシュ・ミート サイケな家族』
『全共闘』
茜三郎・柴田弘美『全共闘』(河出書房新社 2003)を読む。
1960年代後半に高揚した学生運動の写真と、当時学生だった著者の座談会の文章が掲載されている。写真の方は、当時学生だった著者自身が撮影したもので、デモに向かう途中の学生の笑顔や、いきなりヘルメットをかぶって緊張している表情をよく捉えている。文章の方は、全共闘を全肯定するわけでも全否定するわけでもなく、現在から振り返ってどんな意味と現在につながる意義があったのか、真摯に当時と向き合っている。印象に残った一節を記しておきたい。
全共闘が生み出した自己変革・自己否定という発想は、僕はとても大切なものだと今でも思う。自分自身を問う。自分に引きつけて考える。そういうのは、戦後の空気の中で少しずつ育っていった大きな財産だと思う。しかし、僕たちはそれを、十分に深化させて、方法的思想に仕上げることができなかったんだ。
(中略
無党派全共闘は、古典的な党派政治に背を向けたけれど、本当に克服するところまで成長できなかった。単に政治性を嫌悪するところで終わってしまっていた。しまいには揺り戻しがきて、無党派グループが党派のようになっていく場面もあった。何かしっくりした強いものが欲しくなったんだろうけど、むしろ恐ろしく古典的な色調を帯びたものになってしまった。せっかくの全共闘の発想が活かされなかった。「政治とは何か」って、本質的な問いを持続させていくことが必要なんだ。
古くてもうだめだと判っているのに、あいまいに情緒的にこだわるのはやめなくちゃいけない。ソ連型の、国家官僚主導の集権的な計画経済と一党独裁型の体制を社会主義というなら、それはもう終わってしまったんだ。あれは社会主義なんてものじゃない、ただ、国家権力の下いびつに抑圧され変形した発育不良の資本主義にすぎないんだ。「資本主義に対置されるような社会主義経済体制なんてものは存在しないんだ」ってはっきりいうべきなんだ。今、そこまでいえないんだったら、全共闘の「知的ラジカリズム」なんて修辞は返上すべきだとさえ思うよ。
付け加えるけど、今、現在の資本主義をしっかりと把握して、その中から転換の萌芽やきざしを見出していくのが、本来の社会主義運動だったはずだ。資本主義と何か別なものを理想型にするんじゃなしに、資本主義そのものの中に変革とか止揚とかの鍵を見出す努力を続けるべきなんだ。





