茜三郎・柴田弘美『全共闘』(河出書房新社 2003)を読む。
1960年代後半に高揚した学生運動の写真と、当時学生だった著者の座談会の文章が掲載されている。写真の方は、当時学生だった著者自身が撮影したもので、デモに向かう途中の学生の笑顔や、いきなりヘルメットをかぶって緊張している表情をよく捉えている。文章の方は、全共闘を全肯定するわけでも全否定するわけでもなく、現在から振り返ってどんな意味と現在につながる意義があったのか、真摯に当時と向き合っている。印象に残った一節を記しておきたい。
全共闘が生み出した自己変革・自己否定という発想は、僕はとても大切なものだと今でも思う。自分自身を問う。自分に引きつけて考える。そういうのは、戦後の空気の中で少しずつ育っていった大きな財産だと思う。しかし、僕たちはそれを、十分に深化させて、方法的思想に仕上げることができなかったんだ。
(中略
無党派全共闘は、古典的な党派政治に背を向けたけれど、本当に克服するところまで成長できなかった。単に政治性を嫌悪するところで終わってしまっていた。しまいには揺り戻しがきて、無党派グループが党派のようになっていく場面もあった。何かしっくりした強いものが欲しくなったんだろうけど、むしろ恐ろしく古典的な色調を帯びたものになってしまった。せっかくの全共闘の発想が活かされなかった。「政治とは何か」って、本質的な問いを持続させていくことが必要なんだ。
古くてもうだめだと判っているのに、あいまいに情緒的にこだわるのはやめなくちゃいけない。ソ連型の、国家官僚主導の集権的な計画経済と一党独裁型の体制を社会主義というなら、それはもう終わってしまったんだ。あれは社会主義なんてものじゃない、ただ、国家権力の下いびつに抑圧され変形した発育不良の資本主義にすぎないんだ。「資本主義に対置されるような社会主義経済体制なんてものは存在しないんだ」ってはっきりいうべきなんだ。今、そこまでいえないんだったら、全共闘の「知的ラジカリズム」なんて修辞は返上すべきだとさえ思うよ。
付け加えるけど、今、現在の資本主義をしっかりと把握して、その中から転換の萌芽やきざしを見出していくのが、本来の社会主義運動だったはずだ。資本主義と何か別なものを理想型にするんじゃなしに、資本主義そのものの中に変革とか止揚とかの鍵を見出す努力を続けるべきなんだ。