投稿者「heavysnow」のアーカイブ

本日の新聞から

12月4日付けの東京新聞の朝刊に愛知万博を礼賛する社説が載っていた。「愛知万博が国家プロジェクトである以上、地元はもちろんオール日本での盛り上げが重要である。万博協会は基本計画を手に、企業に出展要請するため全国行脚をすべきだ」と協賛企業根性丸出しの論である。この辺りに中日新聞の意向から逃れられないブロック紙の限界を感じざるを得ない。読売グループに対する批判的記事や微に入った文化評論、科学記事の解説など読むに値する記事も多いだけに残念である。

また今日の東京新聞の夕刊に「原爆ドームに落書き」という記事が載っていた。
7日の朝に世界遺産「原爆ドーム」の外壁に「NO MORE RACIZM(人種差別をやめよう)」と書かれていたのを事務所の職員が発見し、110番したというのだ。記事ではコメントを控えていたが、読み方によってはかなり興味深い記事である。日本人の原爆ドームに対する捉え方は得てして被害者側の感情が一般的である。日帝によるアジアへの侵略戦争の終止符となったという認識は薄い。文学においても井伏鱒二の『黒い雨』や、中沢啓治『はだしのゲン』など、一応反戦の体を成しているが、そこに日本人としての加害者意識は伺うことはできない。また原爆投下後の広島において在日朝鮮・韓国人に対する虐待も教科書から消えてしまっている。原爆ドームに対するこうした落書きこそ後世に残していくべきものではないか。

『さらばモスクワ愚連隊』

五木寛之処女作品集『さらばモスクワ愚連隊』(講談社文庫)を十年ぶりに読み返す。
小説の内容よりも高畠通敏氏の解説の方が興味深かった。『艶歌』という作品について高畠氏は次のようにコメントを寄せている。

六十年代日本において、急速な農村分解と人口の都市集中が起るなかで、新しく浮かび上がってきた問題は、大企業の労働組合にも入れてもらえない臨時工や中小企業に働く未組織労働者の問題だった。それはまた、大学から中途で抛り出されて、転々とマスコミ産業を素手で渡り歩く五木自身の問題に他ならなかった。この視点に執着するなかで、五木には、今日の管理社会における基本差別が、組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別であり、それは、出世民主主義のルートにのったエリートと農村から流民化して都会に流れこむ大衆との差別として近代日本において本質的な問題であることに眼を開かせる。その問題をさらに社会的に掘れば、アメリカの黒人、日本の部落民の差別の問題につき当り、自身の中に掘れば、朝鮮からの引揚者として故郷を喪失し流民化した少年体験にも連なる。「デラシネ」「流民」「ルンペン・プロレタリアート」は、五木において同質のものとしてとらえられ、それこそが、五木のイメージにおけるサブ・カルチュアをになう大衆の原像となるのだ。

この中で、「近代日本の本質的な問題」を「組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別」とした高畠氏の指摘は評価に値する。これは大企業や労働組合、学生自治会だけの問題ではない。一般ピープルである私たち自身がいくつも抱えている問題である。近年東京・大阪の都市において、行政は「市民の生活を脅かす」という名目で「ホームレス」を駅・公園から追い出す施策を次々に打ち出している。最近は自立支援センターの開設など改善されてきているが、新宿や渋谷の駅・公園に機動隊が導入され強制排除されたことは記憶に新しい。しかしここでいう「市民」とは一体何なのだろうか。「市民」が「市民」でないものを排斥するという思想は容易にファシズムへと転化する。差別や抑圧は外見的な差異の少ないもの、に対する方が激化しやすい。身体「障害」者に対する差別よりも精神「障害」者に対する差別意識の方が強く働く。また明らかに人種が異なる者に対するよりも、外見にはあらわれない宗教や言語、政治や風俗といったイデオロギーを異にする者への抑圧意識の方が強く働く。高畠氏のいう「組織」を別の言葉で置き換えれば、そのまま21世紀の現代に横たわる様々な問題への警句となろう。

しかし、日本の労働構造の中で最底辺に位置する日雇い・野宿労働者が、実は巨人軍長島茂雄の大ファンであり、皇太子妃雅子さんの子供の誕生を喜ばしく思ってしまうという現実に「市民」はどう向き合えばよいのだろうか。

『ソフィアの秋』『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』

五木寛之初期短編集『ソフィアの秋』(新潮文庫)を十年ぶりに読み返した。
高校2年生時分に五木寛之にはまっていた時期があった。その当時近所の本屋で手に入る本は全て手に入れていた。当時はあまり印象の薄かった作品であるが、今読み返してみて、主人公に共感する部分が多かった。恐らくこれから10年後に読んでもピンとこない作品であろう。
この本に収められている作品の主人公は学生時代に「血のメーデー事件」等に関わった結果、まともに就職できないまま30代を迎えてしまったという負い目を抱えている。それがひょんな出会いから過去の高揚を商業的に利用しようとする機会を得るのだ。主人公は「ゼンガクレン」の闘士を装ったり、左翼的ジャーナリストの肩書きを利用したりして、パリ5月革命の現場やブルガリアの農村に出向く。そこには過去の運動への回顧、若さへの希求、高度化された資本主義に対するしっぺ返し等々のテーマが読み取れる。しかしそれ以上にこの本が1969年に刊行されたということの意味の方が大きい。

今私の手元に『1968年グラフィティ バリケードの中の青春』(毎日新聞社)という大きな本がある。ページをめくると、3億円事件、ベトナム戦争、東大日大紛争、金嬉老事件、サルトル来日、ケネディとキング牧師の暗殺などの記事が続く。世界がくるっと変わったかもしれない事件が相次いだ年だ。社会は若者の力によって変わっていく。しかし30代を迎えた人間は過去の思い出に縛られて人生を変えていくことができない。時代状況を考えるに、この作品は中年に差し掛かっていく青年の終わりを悲観的に描きながら、逆説的に若者の変革の力を浮かび上がらせていたのではないか。