投稿者「heavysnow」のアーカイブ

amlより

アレゼール日本 第2回シンポジウム
「大学が市民社会のチカラになる」日時:2004年11月3日(祝) 13:30〜17:30
会場:早稲田大学(本部キャンパス) 1号館301教室(正門すぐ右手)
(東西線早稲田駅より徒歩5分、山手線高田馬場駅より早大正門行きバス終点
より徒歩0分)

*参加費、事前のお申し込みは不要です。

講演タイトル
「現場主義の学問と大学の可能性:自主講座運動の経験から」
宇井純(沖縄大学名誉教授、公害論)
「バリアフリーな市民社会を作る:障害学という実践」
長瀬修(東京大学先端科学技術研究センター、障害学)
「市民社会と向き合う研究者のネットワーク」
辻下徹(立命館大学理工学部、Acedemia e-Network Project呼びかけ人)

 近年の大学界を覆う改革の嵐のなかで、これまで「象牙の塔」だった大学を社会に開き、多様な人々の期待に応えていくことが強く要請されています。そのもとで、各大学では「社会貢献」へむけた取り組みへと少なからぬ努力が注がれていますが、その多くは「社会」を産業界と理解し、産学連携を進めことが唯一の解決策であるかのような傾向さえ見受けられます。しかし、大学がその知を開くべき社会とは産業界に限られるものではありません。むしろ、ときに産業界と利益が衝突することもある地域住民、一般の市民へと目を向けるべきであり、多様な市民の生活の向上に結びつく必要があると、私たちは考えています。そのような取り組みのなかでこそ、大学ははじめて、すべての人々にとって本当の意味で「開かれた」存在として生まれ変わることができるのではないでしょうか。今回のシンポジウムでは、大学が市民社会のチカラになるための条件とその可能性を探りたいと思います。

 当日は、1970年代より自主講座運動というかたちで、市民社会と切り結んだ現場主義の学問の道を模索され実践されてきた宇井純氏から、自主講座運動の経験を踏まえた問題提起を行っていただきます。続いて、日本での「障害学」の立ち上げに尽力されてきた長瀬修氏から、多様な成員から構成される市民社会と大学との関わりにおいて新たな道を切り拓きつつある「障害学」という学問的実践のありかたをめぐって、話題提供していただきます。また、Academia e-Network Projectを立ち上げ、全国の研究者の間の新しいネットワークのあり方を模索されている辻下徹氏からは、多様なかたちで市民社会と向き合おうとする研究者たちのあいだで、どのようなかたちの連携が可能なのかをめぐって、議論していただく予定です。

市民社会に開かれた大学のあり方を議論し、新しい大学のあり方を模索する場としたいと思います。本シンポジウムへのみなさまのご参加をお待ちしております。

本シンポジウムについてのお問い合わせ先
アレゼール日本(高等教育と研究の現在を考える会)事務局
E-mail office@areserjp.org / Web Site http://areserjp.org/
〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
早稲田大学政治経済学部岡山茂研究室気付
fax 03-3203-9816 / tel 03-5286-9723

バイク屋にて

本日は仕事の帰りに近所のバイク屋へ寄ってきた。HONDAのスペイシー125、もしくはヤマハのシグナス125があれば見たいと思って立ち寄ったのだが、台湾製のKYMCOの125ccの4ストスクーターを勧められた。今までメイド・イン・ジャパンでなければ、中国製も台湾製も同じだと思っていたが、店員さんの話によると、中国製と台湾製では大きく品質が異なるらしい。中国製は安いのだが、鉄一つとってもまだまだ粗悪なものが多いのだが、台湾製はヨーロッパ市場を席巻しており、品質も保証されているというのだ。台湾製だとキャブレターが心配なのだが、kYMCOは日本法人があり、日本向けにセッティングして輸出されるので安心である。125なのでファミリーバイク特約もつけられるし、ますます欲しくなってきた。。。

□ KYMCO JAPAN 公式サイト □

kymco125sr

『人生の目的』

五木寛之『人生の目的』(幻冬社 1999)を読む。
現在わたし自身が人生の岐路に立っている状態なので、藁をもすがるような思いも多少ありながら手に取ってみた。
彼の初期のエッセーである『風に吹かれて』などに収録されているような話もあり、目新しさはないが、気楽に読むことが出来た。積極的に前向きな目的に向って充実した日々を送ることだけが人生ではないと作者は述べる。そして、時には胸の奥から「あ〜あ」と深いため息をつくことで、ふっと自分を取り戻すような瞬間を持ちながら、時代に流されながら、時流に飲み込まれながら、自らに与えられた運命を全うするものであると結論づける。

人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。わたしはそう思う。そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」といのが私の立場だ。
そして、その目的は、私たちが生きているあいだには、なかなか見つからないものかもしれない。確実に見つかるのは目的ではなく「目標」である。だが目標は達成すれば終わる。そのあとには、自分は達成した、という満足感が残るだけだ。そして、その満足感も、時間とともに薄れてゆく。そしてやがては単なる記憶に変色してしまう。
しかし、目的は色あせることがない。失われることもない。そこがちがう。人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと思うなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。自分だけの人生も目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きることである。

『視力0.06の世界』

小林一弘『視力0.06の世界』(ジアース教育新社 2003)を読む。
全国盲学校長会長を務めた著者が自らの弱視者としての経歴と弱視児教育における思いを語る。弱視というと完全な盲児よりも程度が軽く、通常学級でも十分対応出来るのではないかと思われがちであるが、弱視といっても状態は視野狭窄や色覚の異常、まぶしさの受容異常(羞明)など状態は様々で、単に視力だけでは伺いしれない世界である。見えているようで実は見えていなかったり、見えないのかと配慮すればで見えているといった風で、周囲とすれ違いが生じやすく、そのために逆に差別や誤解が生じてしまっている現状がよく理解出来た。

『考える脳・考えない脳』

信原幸弘『考える脳・考えない脳:心と知識の哲学』(講談社現代新書 2000)を5分だけ読む。
心が脳を規定するのか、脳が心を規定するのかという哲学と脳神経科学の中間にある問題について答えを見つけようとする内容である。抽象的な存在である心が具体的な器官である脳の働きを司るのか、いや、脳のシナプスの働きが心の内容を規定するのか、といった「卵が先か鶏が先か」的な議論が延々と続く。読解力のない私にとって、認知科学は難しいということだけが伝わった。