投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記』

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今夕、家族でクリスマスケーキを食べて、子どもをお風呂に入れた後、一人でララガーデン春日部へニコラス・ケイジ主演『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記』(2007 米)を観に行った。
前作同様にぶっ飛んだストーリーとハチャメチャな展開なのだが、宝探しという子どもの頃の夢がモチーフとなっているので素直に楽しむことが出来た。いくつになっても宝探しというのは胸躍るものである。
映画を観ながら、自分もいつか中国の古代文明の文献か遺跡に残された文字を解読して、宝探しの旅に出たいという子どものような想像をしてほくそ笑んでいた。ちょうどシュリーマンの『古代への情熱』に描かれた生涯のように、若いうちにお金を稼いで、現在は残っていない中国の民族文字を研究する。多忙な日常生活の中でも、そのような憧れ(野望?)は胸の内に秘めておきたい。

映画『ナショナルトレジャー/リンカーン暗殺者の日記』公式サイト

『イチからわかる外国為替オンライン取引』

佐藤利光『イチからわかる外国為替オンライン取引』(日本法令 2004)を読む。
日本信託銀行(三菱信託銀行)で外国為替業務に20年間、資金運用業務に10年間従事した著者が、「為替市場の健全なる発展に向けて」著した本である。外国為替取引の歴史や、為替取引の求められるルール、顧客に信頼されるサービスなど、為替取引に関心のある個人が読むというよりも、外国為替保証金取引仲介業者の新人教育などで用いられるような参考書的内容となっている。テクニカルチャートの分析などを期待していたので、ほとんどを読み飛ばしてしまった。

『新風 第五号』

職場で配られた桐原書店発行の国語の参考書や問題集の販促用の小冊子『新風 第五号』(2007.11)を読んだ。
その中で、埼玉県立浦和第一女子高等学校の滝本正史先生のエッセーが興味を引いた。その一部を引用してみたい。

(頭髪服装指導で違反を繰り返し、態度が良くないということで生徒指導部教員から大声で強く叱責されたNさんの件で)
午後の授業で教室に行くと、彼女は早退してしまっていた。担任である私が知らないのだから無断早退なのだが、私は怒る気持ちはなかった。頭髪指導で叱責されている間、彼女はタメ息をつき黙ってそれを聞いていた。それが生徒指導の教員にしてみれば反省の色のない不真面目なものに感ぜられるのだろうが、Nにしてみれば、自分は最初から目をつけられているので何を言っても駄目と言われるという気分だったのだろう。
その日の夕方、私はNの家に電話した。丁度、仕事から帰ったばかりの母親が出たのだが、最初、冷静に対応していた母親は、途中、「あんまりじゃありませんか、確かに髪の毛をいじった娘が悪いですけど、頭髪、頭髪って、異常じゃありませんか」と、私に訴えてきた。
私はNの姉を担任したことがあり、この母親と何度か会ったことがある。私は同世代の子を持つ親として、この母親の言うことが痛いほどよくわかる。母と娘とが夜、協力して髪の毛を黒くし、「明日、先生、『合格』と言ってくれるかしら?」と話している様子など想像するだに胸が痛むし、頭髪服装指導というのは、勉学の環境作りのために行うべきものであり、それを忘れて検査のための検査というように自己目的化してはいけない。それは丸山真男が「『である』ことと『する』こと」の中で「物神化」として戒めていることである。

(中略)えてして教員は生徒の小さな欠点やウソ−臆病さや不完全さ、心のキズから生じ、それを何とか守ろうとする「包帯のような嘘」−を暴きたて、「指導」したがる。だがそれは教育の本質とは無縁である。むしろ、敢て見て見ぬふりをし、敢て立ち入らぬ方が大事なこともある。学校にはその学校全体の重心があり、それを見据えて教育活動を行なうのが大切である。勧善懲悪の真似事をしようとすると校則を過度に厳しくしがちであり、学校全体の重心が歪み、「水清ければ魚棲まず」のような窒息状態となってしまう。

エッセーの中で滝本氏が述べるように「検査のための検査」や「指導のための指導」というのは、白黒はっきりするまでどこまでも突き進んでしまうものであり、最後は指導する側も指導される側も困憊してしまう。ちょうど病気の検査のようなものである。人間誰しも多少の病因は持っているものであり、その病因が表面化しないように健康に配慮するのである。しかし、検査によって病因を明らかにし、その根絶に努めて治療や投薬を繰り返すと、かえって心身の健康を損ねてしまう。勿論放っておいて悪化させてしまっては元も子もない。あくまで心身の健康という大目標に向かって、滝本氏も指摘するように、病因を表面化させないような「敢て見て見ぬふり」が時には大事なのである。それは生徒を「見ない」ことではない。「見て」そして「見ぬふり」という無言のコミュニケーションが表面化を防ぐのである。いささか理想主義的な教育論議であるが、心の中に留めておきたい。

介護養成校への入学者

本日の東京新聞朝刊一面に、「コムスン」問題で表面化した劣悪待遇や景気回復などの要因から、介護養成校への入学者が昨年に比べ13%も減少したとのニュースが載っていた。
2000年度の介護保険導入や、昨年改定された「介護予防」により、介護報酬が引き下げられ、やめる人が増えて仕事はきつくなるのに、給与は減少するという悪循環に陥っているとのことだ。高齢社会をよくする女性の会の樋口会長は「嫁に押しつけられていた介護を、社会で担うものにした介護保険。しかしいま、介護従事者が『社会の嫁』にされている」と介護従事者の窮状を訴えている。
家族や親類の「介助」から社会全体の「支援」へと福祉の転換が行われている中、一部の福祉従事者の生活を破壊する形で負担がしわ寄せされている現状は看過できない。樋口会長の批判はその点で的を得ていると思った。

「村上春樹という不思議な存在」

本日の東京新聞夕刊の文化欄に先日行なわれた「村上春樹という不思議な存在」と題した討論会の様子が掲載されていた。横浜市立大学の鈴村和成氏、東大の藤井省三氏、評論家の川村湊、専修大の柘植光彦氏の4人の研究者がそれぞれ春樹研究の現在と展望について語り合っている。その中で柘植氏は「春樹は僧侶だった父親の影響を大きく受けている。彼が描く『別の世界』や『死後の世界』に、日本的無常観もあるのでは」と述べ、藤井氏は「伝記研究が決定的に欠けている。誰かがもう始めても良い」と指摘する。
まだ生きている50代の作家に対して、「伝記研究」をすべきだと称されるということは、彼が並外れてすっげー作家だということである。大学時代に卒論担当の教員から「生きている作家は評価が変わるし、本人が否定したらお終いだから、文学研究の対象にはならない」と注意を受けたが、こと村上春樹には通じない通説であるようだ。