『眼の壁』

松本清張『眼の壁』(光文社)を読んだ。
『点と線』と並ぶ松本氏のデビュー作である。これらが書かれたのは1960年である。高度経済成長の中での会社員の心労が事件の背景に描かれている。
私の大学時代卒論ゼミで江戸川乱歩を取り上げた学生がいた。その学生の卒論の草稿を読んでゼミの教員が「江戸川乱歩は『昭和』の合理化優先主義の影に潜む構造をつかみとっている」と評していたが、松本清張の作品にも昭和の暗部が底辺に流れている。これが「平成」になると途端に難しくなる。村上春樹の作品に代表されるように「平成」の暗部はバーチャルリアリティ的なものになってしまう。「都市と農村」「男と女」「金持ちと貧乏人」といった近代文学までの旧来の対立項が崩れてしまっているのだから、「現実と虚構」という世界観に根差した小説はもう少し続いていくのだろう。

『何をいまさら』

ナンシー関『何をいまさら』(世界文化社 1993)を今読んでいる。
テレビという媒体は最近「日常」「普通」を追う傾向が見られるが、誰も「それ、自分の日常だ」というリアル感を感じていないという指摘は、良く耳にすることだが、改めてなるほどと思った。私も高校教員をやっているが、高校・大学の友人に話すと、「最近の高校生ってどう?」という質問を必ずと言って良いほど訊かれる。その質問者の頭の中にはテレビで面白おかしくとりあげられる「渋谷系高校生」がイメージされている。しかし一方で90年前後のバブル期に高校時代を送っていた団塊ジュニア世代の私たちも、当時の大学生や20代の社会人は高級車を乗り回し、ジュリアナで騒ぐものだというテレビからの映像を受け取っていた。
高校野球が過剰なまでにひた向きで、純粋な高校生像を作り出している一方で、バラエティー番組等で矮小化された高校生群像が一人歩きしてしまっているテレビのからくりを質問してくる相手に教えるのはそう容易いことではあるまい。

『遠い接近』

松本清張『遠い接近』(光文社)を読んだ。
戦前教育兵時代に受けたリンチを戦後に復讐するという代物であった。軍隊に不満を抱きつつも家族を抱えている軍人は、団体生活の中で、国家に奉仕するという方向性しか見えなくなってしまう現実がリアルに描かれていた。現在のサラリーマンも肩書きを背負ってスーツに身を包み、携帯電話と名刺とシステム手帳で武装しているのだが、現在の企業戦士との類似点がまざまざと想起された。

『イトーヨーカ堂店長会議』

塩沢茂『イトーヨーカ堂店長会議』(講談社 1986)を現在読んでいる。
この本自体はかなり古い本であるが、ヨーカ堂の社長には先見の明があったと納得した。近年ダイエーやそごうなど小売業の不振が報じられるが、ヨーカ堂やセブンイレブン、デニーズ、ダイクマといったヨーカ堂グループの低落はとんと耳にしない。春日部駅周辺には西口にイトーヨーカドーがあり、東口にはロビンソンがある。両方ともヨーカ堂グループなのだが、「競合」店として位置づけられている。しかしどちらも地域に密着して売り上げを伸ばしている。客と社員と株主と地域社会から信頼される店作りがヨーカ堂の社是なのだそうだが、この極々当たり前の在り方が大切なのだ。ヨーカ堂グループは特に新奇な宣伝や戦略を持たず、スタンダードに経営を行い成功している。
実は学校も同様である。生徒と教職員と父母・卒業生、そして地域に愛される学校でなくてはならない。少子化の中で受験生に愛されることのみを目的とした学校が高校大学問わずあるが、総合大学は必要でもそごう大学は要らない。地域に密着し、地道に生徒にこびることなく愛される教員そして学校が求められている。

『弱気の蟲』

松本清張の『弱気の蟲』(光文社)を読んだ。
賭麻雀におぼれていく公務員の姿が生々しく描かれていた。しかし作品のストーリーの背景に、私大出身ゆえに出世の道から外された課長補佐の心理も描出されていた。私は小学校3年か4年の時に『点と線』を読んで以来、時折松本清張は愛読しているが、最近は「昭和の時代小説」として楽しむことができるようになった。携帯電話が存在しなかった時代ゆえに電報やテレックスが登場してきたり、今では崩れてしまった倫理観がかいま見られたり、「昭和も過去になったなあ」と本題の推理以外のノスタルジアを味わうことができるのである。