『創世記』を巡る解釈は無数にあると思うのですが、「禁断の果実」は人間の好奇心の象徴であり、神の言い付けを破ってしまうほど、人間は好奇心に溢れている動物であり、そして特に男性がその時々の社会的規範を逸脱しがちであるということを示唆しているというのが一般的な解釈ではないでしょうか。そしてエデンの園を追われた人間の先祖はその誕生から神に見放された存在であり、以降のバベルの塔や勇者ロトの悲劇の記述につながっていくのではなかったでしょうか。高校時代に読んだ聖書の記憶を今たどっているのですが、はっきりしません。抑圧と解放という観点ではなく、神への信心と好奇心という観点で見ていくべきものではなかったかと思います。抑圧と解放という視点で言うならば他にどのような具体例が挙がるでしょうか?
『戒厳令の夜』
五木寛之『戒厳令の夜』(新潮社)を十年振りに読み返した。
前半部は大和朝廷からの支配を逃れた「山家」の伝承をフィクション化したものであるが、後半部はガラッと趣を変え、チリのアジェンデ政権の崩壊を内部から描いたものである。高校生の時に読んだときはあまり感動はなかったように記憶しているが、今読み返してみて、特に後半部の1936年のスペイン戦争と1973年のアジェンデ政権崩壊を一つの流れとして捉える視点は面白かった。物語中で、36年のスペインにて人民戦線側として活躍したパブロ・カザルスやピカソらが今度はチリに合法的に選挙で選出された人民連合の応援に回るのだ。しかしその人民連合は資本主義の強大国アメリカの策動につき悩まされ、一方で武装化を計る社会党左派、左翼青年組織を持て余しているという微妙な位置にいる。そしてカザルスやネルーダも人民の側に付きたいという良心をうまく政治的に利用されてしまう。この作品はそうした脆弱なアジェンデの政治的基盤をうまく浮き彫りにしている作品であった。
『パソコン教育不平等論』
渋谷宏『パソコン教育不平等論』(中公PC新書)を読む。
硬直化した既存の学校教育に対してインターネット教育を礼讃するというありふれた内容。古い本であるが、内容的には読むに値せず。しかし一つ、イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』から「オポチュニティ・ウェブ」の考えを引いた点が引っ掛かった。現在の教育界におけるインターネットの利用状況から鑑み、イリイチ的な公教育論批判は当てはまらないだろう。
生徒への返信〜『風の谷のナウシカ』
自然界に生きる動植物を、ヒトとヒト以外に区別して捉え、ヒトが自然を支配することに異議を持っているようですね。自然淘汰、適者生存はダーウィンの進化論に端を発する議論ですが、ダーウィン自身も自説である「進化論」はヒトという生物には当てはまらないと述べています。いやそれ以前に聖書の『創世記」の中に禁断の果実を食べたアダムとイブがエデンの園を追放されている記述が見られますし、古代のインドの学問においてもヒトは他の動物とは明らかに異なるという研究がなされています。
私は下記の文章を拝見しながら、宮崎駿原作マンガ版「風の谷のナウシカ」(徳間書店)を思い出しました。まだ読んでいなかったら是非おすすめします。
映画版「風の谷〜」は、自然を利用し破壊するトルメキア軍と自然と共に生きることを目指す風の谷の民、という二項対立的な「分かりやすい」図式で世界観が構成されていました。そして腐界が実は自然再生のために汚染された土壌を浄化しているのだと知ったナウシカが、腐界との共存を果たしていくところで話が終わっていました。
マンガ版「風の谷〜」は全7刊出ていますが、3刊目辺りから大きく映画版と話がずれていきます。トルメキア軍と土鬼軍の対立に風の谷が巻き込まれる点は映画と同じですが、その後腐界が粘菌化して勢いを増し、世界の3分の2を覆う「大海嘯」となって表れてきます。映画版では自然の守り神のように描かれていた王蟲はその粘菌が瘴気を発芽するための苗床であり、しかもこうした世界の滅亡が実は仕組まれたものなのだというのが後半部に入って徐々に明らかになっていきます。旧世界の人間が、醜い戦争に明け暮れる人間自身、そして汚染された自然界の全てを新しい、平和な清浄な緑溢れる世界に造り変えるために用意したものが王蟲であり巨神兵であり、腐界であったのです。その中ではナウシカは汚染された旧世界の人間であり、滅亡されなくてはいけない存在なのです。最終章近くになると、自然と人間の対立ではなく、汚濁と清浄の対立が物語世界の大きなテーマになっていきます。汚濁側の人間の運命を背負ったナウシカは、清浄な世界を築きあげようとしていくシュワの墓場を巨神兵と協力して破壊してしまいます。「希望の敵」と称せられたナウシカとクシャナが共にまた「汚濁された」世界で生きていくというところで話は終わっています。後半部はかなり難解な構成になっていて解釈は様々分かれます。私は、人間も自然も双方すでに汚染されたものであり、滅亡に向かっていることは免れないものかもしれないが、しかし現況を出発点に少しでも滅亡を遅らせる努力をしていこうというのが宮崎監督が伝えたかったテーマであると考えています。
マンガ版「風の谷〜」を読むと、同じ宮崎駿監督の映画『もののけ姫』の主題も分かってきます。現在の自然は完全な自然ではなく、森の司神であるデイダラボッチが殺され、人間の「人為」化のもとにおかれた自然である。しかしそうした自然であるからこそ人間との共生が実現し、人間がより大切に「作為」化しなくてはいけないものなのです。『ナウシカ』が少々悲観的な形で終わっていたのに対し、『もののけ姫』では絶望を前提としつつもかなり前向きに自然との共生を謳っていたと考えます。
はたして答えになっていたでしょうか。最近は書類が忙しいので、満足に答えることは出来ず申し訳ない。読みにくい部分については来年2月に入ってからでも語りましょう。
『人はなぜ闘うのか』
岡田尚『人はなぜ闘うのか JRのすべては人材活用センター弾圧事件からはじまった』(教育史料出版会)を読む。
過去半生を電車の運転や整備に掛けてきた人間が思想・信条を理由に仕事から外されることがいかにつらいことなのかということを、読者に嫌がうえでも訴えかけてくる。「人間の自由、労働の自由をたたかいとろう」これが人材活用センターに収容された労働者の発行したパンフの表題である。考えるに、総評自体が「労働を通じた自己実現」という職業観を基底に、戦後の運動を展開してきた。しかし労働組合の「横並び春闘」といった固定化された路線の限界性が90年代通して指摘され続けた。しかし「ITブーム」やら「ITバブル」やら何やらで、ますます労働が疎外化し、職場が解体されていく中で、労働または職場を通じた社会参加、反戦反差別運動への展開という考えは見直されてもよいのではないだろうか。
