日別アーカイブ: 2023年9月10日

野辺山〜甲府ライド

本日は、子どもの吹奏楽のコンクールの応援に甲府へ出かけた。
午後3時からの演奏順だったので、午前中は輪行ライドを楽しんだ。

ダホンK3という折りたたみ自転車で、大宮から北陸新幹線で佐久平駅まで、そしてJR小海線で野辺山まで輪行した。野辺山駅はJR線駅の最高地点なので、そこから出発すれば、下り坂だけで楽ができるだろうという目論みである。

10時過ぎに野辺山駅に到着し、野辺山の宇宙電波観測所を見学してから清里を通過して、小淵沢駅を経由して、甲府に辿り着いた。

途中、小淵沢駅近くで横断旗を発見した。春日部周辺ではすっかり見られなくなったものである。
暑い中であったが、ほとんど坂を登ることなく、ずっと下り基調だった。標高1350メートルから、1000メートル以上降りてきた。14インチの小さいタイヤであったが、ロードバイクと同じような
ポジションを取ることができるので、思ったよりも楽であった。

輪行時もコンパクトに折りたたむことができ、軽いので持ち運びやすかった。都心部でも気軽に輪行できそうである。

『かくされた自然』

栗原康『かくされた自然:ミクロの生態学』(筑摩書房 1973)をパラパラと読む。
濁った水たまりに繁殖するボウフラや牛のい内臓に生殖するバクテリアなど、微生物の研究が分かりやすく説明されている。
次の一節が印象に残った。珊瑚礁を含め、肉食と草食の区分が崩れてしまう。

ウシは草を食べるという点では、確かに草食動物である。しかし、その草は胃の中の微生物社会を動かすためのエネルギー源なのである。
ウシは、草を食べて生きているのではない。草を食べて生きている無数の微生物によって生かされているのである。
ウシはバクテリアを食べる細菌捕食者であり、原生動物を食べる肉食動物であり、微生物の排泄物を食べる汚物処理者でもある。ーそして微生物こそ草食動物なのである。

『ローカル線ひとり旅』

谷川一巳『ローカル線ひとり旅』(光文社知恵の森文庫 2014)を読む。
ちょうど、長野県の佐久平から野辺山まで、JR小海線で移動中だったので、ワクワクしながら読んだ。青春18切符の歴史や使い方、「盲腸線」とも呼ばれる起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線の味わい方、バスやフェリーも併用する電車旅の詳細のルート設定、通勤仕様のロングシートとクロスシートの違いなど、ローカル線の味わい方がこれでもかというくらい紹介されている。

『本のひとこと』

巖谷大四『本のひとこと』(福武書店 1983)を読む。
文芸評論家で読書好きを自認する著者が、読んだ本の一節を紹介しながら、時流に物申すエッセーとなっている。印象に残った一節を孫引きしておきたい。

イエスは、姦通の現場から引き立てられてきた女を取り巻く群衆に、汝らのうち罪なき者まず石を擲て、と言うでしょ。聖書のなかの群衆はイエスの言葉に恥じて、一人去り二人去りしていって、最後にはイエスと女だけが残った、 とありますね。でも、日本でだったら、われ先にと石を擲つでしょうね。自分はなんの罪もおかしてはいない、と大部分の人が思っていますもの。罪などというものとはまったく無縁で、 いつも正義感に充ちています。
一 大原富枝「地上を旅する者」

巖谷氏は、匿名で正義面して批判する輩を揶揄しているが、40年後の現在も全く変わらない。

「他人によって傷つけられるものは、自分のエゴイズムだけだ」。この言葉に深く心を動かされてから、もう三十年以上の歳月が経った。今でもこの言葉は 私の胸の奥深くにあって、何かの時に思い返される言葉である。私自身にとっては、この言葉の真実を今も疑えない。私は自分が他人によって傷つけられたと思うとき、その傷つけられたものが、結局自分のエゴイズムに過ぎないことを、苦い思いをもって絶えず反省する。
一 谷川徹三 「わが人生観」

この一節は私も深く印象に残った。最後に中野重治の文章も紹介されていた。

せっぱつまった状態は中身がつまっている。中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということ、せっぱつまっているということは、その仕事に当人が身を打ち込んでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている素僕というのはそういう態度をさしている。
ー中野重治「素樸ということ」