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「山形県沖地震 ひずみたまる「集中帯」で発生」

本日の東京新聞夕刊より
昨夜山形県村上市で震度6強を記録した地震は,新聞の図で説明すると,オホーツクプレート(教科書では北米プレート)とアムールプレート(同ユーラシアプレート)の境界線で発生している。東日本大震災の報道でも明らかになったように,太平洋プレートがオホーツクプレートの下へ沈み込む「狭まる境界」の方は解明がかなり進んでいる。一方,フォッサマグナ西縁の糸魚川・静岡構造線に繋がるアムールプレートとオホーツクプレートの境界線は,まだ未確定のままである。「逆断層型地震」が発生していることから,「狭まる境界」の範疇と考えてよいのだが,海溝や地層の褶曲といった明確な地形の変化が観測出来ていないので,記事ではひずみという言葉で表現されている。

教科書のプレート分布地図を見れば分かりやすいのだが,太平洋の東側チリ沖に,地中からのマントルが東西にわき出る「広がる境界」の東太平洋海嶺がある。その西側に位置する太平洋プレートは年間5〜10cmの速さでユーラシアプレートやフィリピン海プレートに向かって移動している。太平洋がどんどん西に向かっているので,約1億年後にハワイと東京は陸続きになるというこぼれ話があるが,それほどの圧力が日本海溝と伊豆・小笠原海溝にかかっていることを考えると事態は深刻だ。いくらプレートの研究が進んだところで,プレートの動き自体を止めることは出来ない。せいぜい境界線付近の観測点の測量データから,地震が近いことを予想するだけである。

地理は地球の「理(ことわり)」を明らかにする学問のなのだが,こと地震大国日本では,地球に対する敬虔な「畏(おそ)れ」を学ぶ「地畏(ちい)」としたほうが良いのかもしれない。
どうですか? 「地畏A」「地畏B」という科目名は。

「フェーン現象+山肌の熱=猛暑」

本日の東京新聞夕刊に,昨年7月23日に埼玉県熊谷市で41.1度の国内観測史上最高気温となった原因に関する記事が掲載されていた。
地理の授業では「気温の逓減率」と「飽和水蒸気量」の簡単な計算を用いた説明しかしないが,実際は,太平洋高気圧の張り出しや山肌からの熱の上昇など,様々な要因が絡んでくるということが理解できる。

ちなみに「気温の逓減率」とは,標高が高くなればなるほど気温が下がることである。100m上昇するごとに,平均して0.65度下がる。
話し向きは変わるが,伊勢物語の東下りの章段で,昔男一行が京都から駿河に下る折に,5月の下旬だというのに富士の頂きには雪がたいそう残っている様子を目にする場面がある。そこで,昔男は有名な「時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ」との和歌を詠むのだが,もし在原業平が地理の勉強の中で「気温の逓減率」を理解していたならば,「時知らぬ〜」の和歌は生まれなかったかもしれない。

富士山は標高3,776mなので,単純計算で海抜0m地点より25度も低くなる。5月(さつき)と言っても,新暦に直すと現在の6月下旬,昼間の気温は当時25度くらいであろうか。あくまで予想であるが,富士山の頂上付近は高い時間帯でも0度なので,雪は早々に消えることはない。

なお,この気温の逓減率は,南米ボリビアの首都ラパスでも説明される。ラパスは標高3600mで,富士山とほぼ同じ高さに位置する。ケッペンの気候区分(正確にはケッペン自身がさだめた区分ではない)で言うと,H(高山都市)である。ラパスは赤道付近の熱帯地方にあるが,平地に比べ20度以上も低く,年較差もほとんどないので比較的過ごしやすい。

また,「飽和水蒸気量」とは,気温が下がれば下がるほど,空気中に含まれる水蒸気の量が減少することである。「気温の逓減率」と合わせて考えれば,日本海の水蒸気をたっぷりと含んだ大陸からの冬の季節風が,日本の険しい山肌を超えている際に,日本海側に大雪をもたらすことが理解できる。

「『道徳に教育勅語』募る憂い」

1面に続く,27面では教育勅語再評価に関する内容となっている。記事にもある通り,国民を戦争に駆り立てた教育勅語は,1948年森戸文部大臣の時に排除・失効が決定している。それに代わって1947年に「平和主義・国民主権・基本的人権の尊重」の考え方に基づいた教育基本法が成立している。しかし,柴山昌彦文部科学相は昨秋の就任会見で,教育勅語を「道徳に使えるという意味で普遍性がある」と発言している。

近現代の歴史を学ぶ上で大切なことは,偏差値を上げることでも歴史用語の暗記でもない。「平和=善,戦争=悪」といった単純思考から一歩脱し,無謀な戦争へと突っ込んでいき,失敗に気づいても引き返せなかった過程や,戦争に巻き込まれなくても済む安定な国家の準備段階の流れを丁寧に掘り起こしていくことである。ちょうど先週あたりから,財閥解体や農地改革など担当する教員も辟易してしまう内容が続くが,用語の穴埋めや説明ではない授業を心掛けていきたい。