仕事の帰りにブラブラと中川水道橋を走った。車やバイクでは立ち入ることのできない場所である。自転車の機動性を感じる。
レイクタウンにある屋内スカイダイビングの施設に立ち寄ってみた。
目の前をインストラクターが高速で空中を移動していく。アクション映画を実演で観ているようだった。
救援連絡センターのメーリングリストより転載
一般公開の集会開催のお知らせとご参加のお願い
オウム事件真相究明の会にご賛同いただいている皆さまへ
お世話になります。
掲題の件についてご連絡です。
2018年7月6日 松本元死刑囚の執行によって、本会の趣旨である、「松本氏を治療し、適正手続きによって裁判をやり直し、一連の事件の真相究明を求める」という本会の目的は、残念ながら断たれてしまいました。会の目的達成が断たれた以上、本会は解散とさせていただく方向で検討中でございます。
また解散にあたって、会の最後のけじめとして、今回の執行によって社会にどういう問題が残ってしまったのか、そしてその問題を今後どように考えていけばよいのかという問題提起の集会を、以下の要領にて開催する予定です。
ご賛同人のみなさまにおかれましては、ご多用の折大変恐縮ですが、ご発言、あるいはコメントをお寄せいただくなど、本集会へのご参加を検討いただけますと誠に幸甚です。
つきましては、本集会への参加・不参加について、事務局までご連絡いただけないでしょうか。
●事務局:info@aum-shinsokyumei.com
会の解散、もしくは下記集会について、ご不明点・ご意見等ございましたら、同様に事務局までご連絡くださいませ。
何卒よろしくお願い申し上げます。(事務局)
<集会開催要領>
■集会名称:死刑執行に抗議し、オウム事件についてもう一度考える集会
■開催日時
2018年8月24日(金) 18時会場 18時30分開会
■場所
文京区民センター3ーA会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/gmap/detail.php?id=1754
■参加費
1,000円
■発言予定者
(8/7時点 予定)
第1部
森達也さん(真相究明の会の活動と死刑執行について)
野田正彰さん(松本元死刑囚に面会し意見書を提出した精神科医)×二木啓孝さん(ジャーナリスト)
河野義行さん(松本サリン事件被害者)×浅野健一さん(ジャーナリスト)
第2部(順不同。概ね発言順)
下村健一さん(ジャーナリスト/白鴎大学客員教授)
茂木健一郎さん(脳科学者)
金平茂紀さん(TVジャーナリスト)
鈴木邦男さん(一水会元顧問)
山本直樹さん(マンガ家)
坂上香さん(ドキュメンタリー映画監督)
雨宮処凛さん(作家)
他、現在交渉中です
司会:雨宮処凛さん
以上
石原千秋『Jポップの作詞術』(NHK出版生活人新書 2005)を卒読する。
2001年から05年にかけて大学受験雑誌に連載されたもので、漱石研究の第一人者の著者が当時人気だったJポップの歌詞を「テクスト論」として分析しようという意欲作である。テクスト論とは、生身の「作者」と「テクスト」とを切り離して論じるもので、「作者の意図」など全く考慮しないというものである。つんくや福山雅治、平井堅など誰しもが知っている作詞者が取り上げられており、歌詞の分析からそうした歌詞が生まれてくる背景についても触れられている。
消費社会論について高校生向けの”超”分かりやすい文章があったので、紹介したい。
(B’zの『GOLD』の歌詞から取り出した)キーワードのところで、「期待」や「不安」の主語はすぐに決めることができるのに、「欲望」の主語はすぐには決められないものだと言った。「欲望」とはずいぶん不安定な言葉なのだ。では、そもそも「欲望」とはどういうものなのだろうか。
僕たちはいま大衆消費社会に生きている。こういう社会は「欲望」を前提として成り立っている。例えば、人々が最低限の生活必需品しか買わなくなったら、この社会は成り立たないのである。人々が余分なものを「欲望」し、それを実際に買うことで大衆消費社会は成り立っている。
無責任なマスコミは「もったいない」という精神を日本独特の美徳として宣伝する一方で、「家計の財布が緩まないと景気がよくならない」などと、無駄遣いの勧めを説いたりする。いったいどっちが言いたいことなのか。マスコミはもともとデタラメなものだから無視すればいいが、僕たちの「欲望」がどこからやってくるのかという問題については、考えておかなければならないだろう。僕たちは社会的な「欲望」は、決して内面から自然に沸き上がってくるものではない。君たちは「みんなが持っているから、自分も欲しい」と思ったことはないだろうか。そう、僕たちの「欲望」は「みんな」を基準にしているのだ。この場合の「みんな」とは身近な人だけを意味しない。マスコミが作り出した「みんな」もまた「欲望」の基準となる。人々が「みんな」を基準に生きることが、大衆消費社会の特徴なのである。「みんな」がお互いを真似しあっているのだ。
こういう「欲望」のあり方を利用したのが、「流行」である。ブランド品は、もっと巧妙だ。「みんな」と同じモノを身につけていることで安心を与えてくれ、それでいて「みんな」よりも少しだけ「上を行っている」感じをも与えてくれるのが、ブランド品だからである。これは、僕たち大衆の心理そのものだと言える。だから、現代思想では「私の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン)と言ったりする。でも、「みんな」の真似ではなく、はじめて何かを「欲望」する人がいる。その人は大衆ではなく、たぶん「天才」なのだ。例えば、ソニーのウォークマン伝説。あの頃、自分だけの音楽を持ち歩けるなんて誰も思っていなかった。つまり、誰もがそんなことを「欲望」していなかった。ところが、ソニーの中にそれを「欲望」した人がいて、ウォークマンという形にしたのだ。そしてそれまでどこにもなかった「欲望」を作り出した。以後ソニーは、「人々の欲しいモノを作る」会社ではなく、「人々の欲望を作る」会社だと言われたものだ。これが「天才」の仕事でなくて、何だろう。
僕たちは、「欲望」は自分の内側から沸いてくるものだと思い込みがちだ。しかし、実は自分でも気づかないで「他者」を真似ているだけだったり、どこかで「欲望」を作られているだけだったりするのかもしれない。そう考えると、こういう「欲望」の性質に自覚的になることは、いまとても大切なことだと思う。
鈴木涼美『身体を売ったらサヨウナラ:夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬社文庫 2016)を読む。
どこかで読んだような内容が続くなあと思っていたら、過去に単行本で読んだ本だった。しかし、前回は途中で挫折しているのだが、今回は疲れた頭にぴったりの内容で、何となく最後まで読み終えることができた。
中でも、鈴木さんの自身の経験に基づく女子高生論が面白かった。一部引用してみたい。
高校時代は、おかしな格好も男ウケしなそうな服も、ギャルという記号の上で遊びながら身につけることができた。読んでいる雑誌が『ポップティーン』で買い物をする場所が109なのであれば、どんなにコーディネートに気合が入っていなくても、女子高生というレッテルを正々堂々と自分自身に貼り付けて道を歩けた。可愛らしさや自分らしさやセンスなんていうものは全部二の次で、どんなジャンルに属しているかが、私たちが私たちとして楽しむのに、最も重要なことだった。
本書全体を通じて、風俗業界やアダルト女優の頃の武勇伝や、風変わりなともだちネタ話が延々と繰り返されるのだが、「文庫版のためのあとがき」の中で、そうした自身の経歴を都合よく第三者風にまとめている。その開き直りっぷりが清々しい。あとがきだけ読めば本文を読む必要ないか?
どこにでもいる普通の男の子が、ある日雲に噛まれたり刑務所の中で空手の師匠に出会ったりして誰もが認める唯一無二のヒーローになるのが少年漫画だとしたら、どこにでもいる普通の女の子が、ある日どこかの誰かにとってだけ唯一無二の存在になるのが少女漫画である。オンナって結構安い存在だな、と思う。オトコが1人いれば、その人との閉じられた世界の中で、物語と幸福が完結してしまうのだから。
ただし、おそらくそこに登場する彼女たちも、描かれる高校生活からせいぜい長くて2、3年その幸福を噛み締めた後、もっと荒唐無稽な20代を経験することになる。根幹にはその「あなたさえ私を必要としてくれれば他には何もいらないの」的な感覚を持ちながら、でもそれは2、3年でとける魔法であるという記憶を元に、やっぱりオトコより自分磨きでしょ的な開き直りで仕事や美容や習い事に励み、どんな幸福も指の隙間から逃げていってしまうの的な絶望でクラブ遊びや深酒や無駄なセックスを繰り返す。そしてオトコ1人に選ばれる(結婚)以外にオンリーワンになる方法はあるのか。否、ない、ううん、きっとある、と自問自答を繰り返し、やっぱりあなたの胸の中が一番落ち着くとか言って絶頂を迎えた次の月には、オトコなんて本当にいらないなんて言って女友達の家に転がり込み、女同士サイコーとか言って飲みに行った次の朝は漠然とした虚しさに泣いて、思考もファッションもくるくるまわってでんでんでんぐり返ってバイバイバイ。
私は閉じられた2人の世界の甘酸っぱい幸福に酔いしれる高校2年生の物語も好きだけれど、そこから強制的に卒業させられて彷徨える女の子たちの細かい物語が好きだ。幸福で完結する物語自体が人生なのではなく、その物語を百も繰り返す過程とつなぎ目こそ女の人生だと思う。オトコなんて大きな富と名誉と幸福に向かってせーので始まってダッシュで生きている古臭い存在だけど、オンナは最初っからわかっている一番の幸福をとりあえず高校2年生の写真に貼り付けて、その後の紆余曲折を生きる。
紆余曲折なんて大抵は陳腐なものである。過食嘔吐してみたり、ギャンブルにハマってみたり、整形したりホストに通ったり身体を売ったりブランド品を買い漁ったり。安い存在だけど、私はその姿が愛おしい。つまらない依存も発散も、百回繰り返したらいいと思う。