月別アーカイブ: 2017年4月

渋谷区立宮下公園の全面封鎖に対する緊急抗議声明

以下、メーリングリストより転載

2017年3月27日、宮下公園は約3メートルの鋼板によって全面封鎖されました。

 宮下公園では、昨年末より多いときで小屋を持たない野宿者が20名以上寝ており、封鎖の行われた27日も私たちが確認できただけでも9名の野宿者が園内に泊まっていました。
渋谷区は早朝より封鎖作業をはじめ、おびただしい数の職員・警備員・警察官によって朝9時頃から利用者の入園を認めませんでした。
 野宿者・利用者に対する事前予告なしの抜き打ち・だまし討ちの封鎖でした(注1)。
園内にいた複数の野宿者は冷たいみぞれの中、追い出されました。雨がやむまで待ってほしい、と要求した一部の野宿者については、工事内容の説明もせずにフェンスで周囲を囲った上で、福祉課の職員がドヤの宿泊を打診しました(注2)。移動の自由を奪い、追い出しと一体になった福祉のこのようなあり方は人間の尊厳を踏みにじるものでしかありません。本来、追い出しに人権的観点から抗議すべき福祉行政が渋谷区では追い出しの尖兵になっています。
 これらの野宿者は福祉の打診を断り、昼過ぎまで抗議の意志をもって公園に残りました。
 突然の封鎖に抗議し、公園内の人たちに会うことを求めた支援者には、警察を動員し1名を逮捕するという形で排除しました。
 園内にいた(供用停止の場所になっていない階段部分も含め)支援者に対して、渋谷区は職員や警備員で取り囲んで身動きをさせず、15時間以上にわたって園内の水飲み場・トイレを使用させない、という人権無視の姿勢でした。
 園内にとどまった野宿者・支援者が園外と一体となって行った、区長への面会と雨がしのげる継続的な寝場所を求める交渉は深夜にも及びました。
 最終的に、吉武公園課長が今後の寝場所を渋谷区の公共地にもうけるように総務部と責任をもって交渉するとの約束をマイクで公言しました。
 一方、公園内にあった寝るために必要な毛布などの受け渡しは渋谷区の都合で遅滞し、深夜1時すぎになりました。朝9時に「荷物はすぐに渡すから」と公園を出された人にとっては、荷物返還を要求してから12時間以上が経過していました。

 以上が私たちの経験した3月27日の宮下公園での暴力的な排除の概略です。
 現在、渋谷では駅周辺をはじめとする「100年の計」と言われる再開発が進み、夜間眠れる場所が奪われています。一方で、新たに野宿に至る人が減ることはありません。そのような状況下で、三井不動産による、そしてオリンピックのために渋谷区が推進する新宮下公園等事業は、初動において野宿者の排除を行いました。それは、同事業が公園の持つ人権を擁護する公共性を無視し、利用者との合意に基づかない商業的な論理に貫かれた暴力的なものであることを象徴的に表しています。
渋谷区行政は、近年一貫して野宿者を排除してきました。
 長谷部健区長は、議員時代にナイキと渋谷区を結びつけ、宮下公園の改造を実現した張本人です。2010年宮下公園で野宿者を排除した渋谷区は、国家賠償裁判において敗訴しました。当時の桑原区長の後継者として長谷部氏は2015年に区長になりました。
 長谷部区長は宮下公園において2回にわたって野宿者排除をしたことになります。
 区長の提唱しているダイバーシティ(多様性)・インクルージョン(包摂)が、実態を隠蔽する表面的な題目にすぎないことは明らかです。
 28日朝、移転先の公共地で渋谷区が工事を始めようとしました。担当課長が工事内容の説明を拒否する中で、野宿者の一人が逮捕されることになりました。また、悪天時の寝泊まり先として要求してきた場所に渋谷区はプランターを設置しました。しかし、宮下公園から排除された野宿者は、なんとか寝場所を確保するために行動しています
 私たちは、渋谷区、長谷部区長、三井不動産に対し満腔の怒りをもって抗議します。

寝場所を返せ!
宮下公園を返せ!
渋谷区は野宿者排除をやめろ!
三井不動産は新宮下公園事業を取り下げろ!
長谷部区長は、いますぐ私たちとの話し合いに応じろ!

注1 園内の毛布倉庫、ダンボールなどに公園課が撤去の警告を連日貼っていました。3月25日付けの警告は、撤去期限を4月6日としています。また、3月24日に開かれた区民環境委員会で、新宮下公園事業について聞かれた公園課長は、設計が終わり次第工事に着手する、と回答していました。現在、新宮下公園は設計どころか都市計画すら決定していません。
注2 渋谷区の福祉が利用している宿泊所などの施設の多くは、東京都が定めた「宿泊所設置運営指導指針」に反しています。また、宿泊所は、門限、人間関係、大幅な保護費の天引き、二段ベッドが並んだ狭小な居室などのため、退出する人が多いのが現実です。

2017年3月30日
宮下公園ねる会議
夜間施錠よなよな阻止行動
2016-2017渋谷越年越冬闘争実行委員会
みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会
渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合
【抗議先】
◆渋谷区役所(代表):TEL 03(3463)1211
FAX03(3548)4900
◆長谷部健渋谷区長 区長室:TEL 03(3463)1290
◆区長への手紙:〒150-8010 渋谷区渋谷1-18-21
◆渋谷区長宛て ※区施設に専用封筒(切手不要)専用 FAX03(3548)4900

●●毛布・現金カンパのお願い●●
宮下公園を排除された野宿者および周辺の野宿者のための毛布や食料購入費が底をついています。毛布・現金のカンパをお願いします。
「カンパ送り先 郵便振替口座 00160‐1‐33429 のじれん ※〈ねる会議カンパ〉とお書きください」
連絡先 08025205487(宮里)

『ビブリア古書堂の事件手帖』

三上延『ビブリア古書堂の事件手帖:栞子さんと奇妙な客人たち』(メディアワークス文庫 2011)を読む。
表紙の絵が可愛らしく印象的だったので手に取った本である。黒髪のおしとやかな女性の姿が古書店の女性店長栞子さんのイメージにぴったりで、話の舞台も想像しやすかった。あえて続きを読みたいとは思わなかったが、頭の中で作られた物語のイメージをいつまでも大切にしたいと思った。

「共謀罪」に対する闘いの意味するもの

以下、「経産省前テント広場」のメーリングリストより転載

◎4月7日(金)「共謀罪」に対する闘いの意味するもの

 村上春樹の『騎士団長殺し』には1930年代の暗い事件が登場する。この小説にとってこの事件の登場が何を意味するかを論じるのは難しいのだが、とても印象深いところだ。一つはドイツ(ヒトラー)によるオーストリア併合に絡んだナチ高官殺害事件である。これには「騎士団長殺し」という絵の作者である雨田具彦が、若い日のオーストリア留学時に関係する。彼は、オーストリア人の恋人と共にこの事件連座し、ドイツの秘密警察に逮捕され、強制送還される。もう一つ、弟の雨田継彦が1937年の南京虐殺事件に参加し、後に自殺する件である。1930年代の暗い二つの事件を何故に村上春樹は、この作品に登場させたのか。この作品を読みながら思いめぐらしたが、昨今の状況があの不安な1930年代に似ていることへの危機感と、それに対する村上のメッセージのように思えた。

 「戦争のできる國」へと国家が舵を切ったことは、今や多くのひとが感受するところだが、それは国家権力による自由や民主主義(国民の自由や発言や行動)の制限や抑圧と関係している。これは最終的には、憲法の改正(権力を縛る憲法の改定)になるのだろうが、実質的に、それをあらわす法案が出てくる。憲法解釈の変更や安保法案(戦争法案)であり、特定秘密保護法案である。そして、今、「共謀罪」法案が国会に上程されている。1930年代を想起させる国家権力の動きがみられるのだ。戦争のみならず、国家権力の所業を経験した人たちが、危機感を持って当時のことを語る、それをよく目にする。戦中派(戦争経験のある人)の人々の書き遺しである。作詞家であるなかにし礼は『夜の歌』で満州国から引き揚げを含めた自己の生涯を込めた作品を書いている。これは一例だが、多くの人が歴史的証言として、それを遺している。

 「共謀罪」法案、この法案の趣旨は明瞭ではない。その目的にとってつけたように、テロ防止を付け加えているのは、そのことを示している。テロやその防止について政府は明確な(国民が納得できる)説明をしたことは、これまで一度もない。反テロ戦争に加担してアフガニスタンやイラクに自衛隊を派遣したが、その総括もない。反テロ戦争とは何だったのかの説明をしたこともない。テロといえば、誰もが反対できない。反対するのは難しいから黙っている。テロが、なにをさし、どのように起こるのかの説明はできていないのだ。オリンピックを掲げるが、それとテロとの関係など、何一つ明らかにしていない。

 政府筋にとって、ことは明確なのだ。戦争と国家権力強化(自由、民主主義、国民主権の制限や抑圧)なのだ。僕らは、戦争と、自由や民主主義の抑圧の歴史を、フランス革命の時代から見ている。1930年代のファシズム(全体主義)は、それが極端にあわわれたが、連合国(ファシズムに対抗した国家連合)の側にも、程度は違うが、同じことが存在したことはいうまでもない。この国家権力の再編と強化が実質的に進められるのは、官僚機構(法務省・軍・警察等の統治系の機構)においてである。今、「共謀罪」法案を通そうとする政治家たちは、それが機能しはじめるころにはいないだろう。「共謀罪」法案が良くなかったと、後で悔やむ人が多いのかも知れない。

 昨日は日比谷公園で「共謀罪」に反対する集会に多くの人が集まった。この動きは今後、より大きな声となっていくだろう。「共謀罪」法案は多くの人が指摘するように「治安維持法」を想起させる。「治安維持法」ができたのは大正15年(1925年)である。1920年代は、もちろん、1930年代、とりわけ15年戦争と呼ばれている中国大陸での戦争が激化し始めたのころに、この法律が強く機能した。これを制定した時代の内閣は、拡大適用に警戒的であったと語られるが、こんなことは、ちっとも作用しなかった。今、政府の説明も同じである。少しでも通りのいい言葉で飾るだけである。何故だろうか。

 ここには、近代の日本で法(憲法)がどのようなものとしてあったのか歴史がある。法(とりわけ憲法)は、国家権力の権力行使を制限するものであり、それを抑制するものであると語られる。これは国民主権の意味であり、これが普通の憲法の常識である。日本では、これは憲法の条文の中には存在しても、現実には存在しなかったことである。日本は明治維新を経て憲政国家になったというが、日本では憲法が国家の根本法になったのではない。広辞苑にはそう規定されている。だが、そうではない。国民の意識(意志)が権力の専制的恣意的行為(暴走)を制限し、縛るものとして、憲法が存在しなかった。憲法は、国家支配権力の統治のための道具であった。アジア法治思想(法家の思想)に基づく法思想(法についての考え)が支配的であり、憲法もそのように扱われてきたのだ。

 かつて、三島由紀夫は「治安維持法」は不敬罪にあたると批判した。彼は天皇制の擁護者であり、体制擁護派と目されていたのに「治安維持法」を、このように批判した。これは「治安維持法」が「大日本帝国憲法」に違反していたというように読める。でも、「治安維持法」が「大日本帝国憲法」と矛盾するものであるという指摘はなされなかった。これは「大日本帝国憲法」が普通の意味の憲法の条件(存在の意味)満たしてはいなかったことであり、憲法という言葉の書かれた法の体系(憲法法律)はあったにしても、憲法(憲法を憲法にする精神としての憲法、あるいは思想としての憲法)は存在しなかったことを意味した。

 戦後憲法は「治安維持法」の存続を否定したが、憲法を憲法たらしめた結果であったかといえば、そこには疑問が残る。憲法についての認識が、戦前の憲法の反省に立って一変したか、というと疑問があるからだ。日本帝国憲法の改正としての日本国憲法の成立には、憲法についての認識の革命(国民主権への憲法観の転換)が起きたとは考えられないからだ。確かに、戦後憲法の前文には、国民主権のことは書かれているにしても、支配層も含めて憲法観の転換が起きたとは思えないのだ。国民主権は憲法の前文という条文のなかに存在するだけだ。

 僕らは、政府や官僚層の憲法観(国家権力の統治の道具としての憲法)に危惧し、不安を抱いてきた。そういう法観伝統(法律は、国民を支配する道具として存在するという伝統)があることに不安をもってきた。そういう憲法観においては、憲法は、国家権力(政府や官僚)の暴走を歯止めするものではない。戦前にはそこに上乗りするように「治安維持法」があったのだが、現在は、そこに憲法違反ともいうべき治安維持法に匹敵する「共謀罪」法案が出てきている。だから、問題は二重なのだ。憲法に違反するような法案がでてきていること、それにもう一つ、権力の超権力的所業(専制的・抑圧的振舞い)を歯止めする憲法観がないことである。ここに共謀罪提出に対する本当の不安と危惧がある。

 人々の自由を侵犯する「共謀罪」法案を、法として認めないのは当然だが、これへの異議申し立ての中で、僕らは日本の憲法観を変えていくこと、それが同時に必要なことを自覚しなければならない。立憲主義の擁護というのは、それを表す言葉である。「治安維持」(テロ防止)に名を借りた抑圧法としての「共謀罪」法案に反対する。同時に、この闘いが、憲法観を創り出す、自由と民主主義を存在させる革命的な運動でもあることを自覚しなければならない。自由と民主主義など日本にはない。憲法観がないように。それらは僕らの意識や現存感覚にあるだけで、それは現在から未来に向かって創りだされていくものなのだ。

 憲法違反の共謀罪を葬ると同時に、真の憲法観を創り出していくことを意識していなければならない。憲法にまつわる運動や闘いが抱える複雑な日本事情だが、ここを自覚していなければならない。共謀罪法案対する闘いは二重の意味で憲法をめぐる闘いである。一般的な意味での自由や民主主義の抑圧法である共謀罪法案はその法案を葬ることで憲法を守るたたかいだが、その過程で憲法観を創り出すことであるという意味での憲法のための闘いである。自由と民主主義を生み出して行く、つまりは憲法観を生み出して行く闘いでもあるのだ。これは「共謀罪」法案に反対する運動に内包される希望だが、この希望は自覚されてあることで、はじめて生きるものだ。
(三上治)

『鐘』

内田康夫『鐘』(講談社文庫 1994)を読む。
このブログを検索してみたところ10数年前に一度読了していた本であった。
しかし、内容はほぼ忘れており、新鮮な感じで読むことができた。
活字よりも地図の記憶の方が強いのか、ドライブマップで長野県内の国道147、148号線を辿った記憶は微かに残っていた。