日別アーカイブ: 2017年3月6日

『河上肇評論集』

杉原四郎編『河上肇評論集』(岩波文庫 1987)を読み始めた。
河上肇氏は1902年生まれの経済学者である。『資本論』の翻訳や、ベストセラーとなった『貧乏物語』の著者としても有名で、読売新聞社を経て京都大学の教授となってからは、マルクス主義の立場を漸次はっきりとさせていき、『改造』や『労働農民新聞』などで論陣を張るオピニオンリーダーとなった人物である。しかし、50歳を前に大学を辞して後、共産党に入党し、地下運動に入り、4年間獄中で暮らした華々しい経歴の持ち主である。
どの文章も、今現在の社会、政治、経済、労働問題の核心をついており、著者の視点の鋭さに驚きを隠せない。
その中でも一番印象に残った章をを引用してみたい。論語に代表的な漢文の訓読調の繰り返しのリズムが耳に心地よい。

 経済社会の理想は経済社会それ自身の滅亡にあること、以上述ぶるが如し。しからば敢て問う、吾人は如何にしてこの理想を実現するを得べき乎。曰く他なし。ただ労働を遊戯化するにあるのみ。然りただ労働を遊戯化するにあるのみなれど、この事言うは易くして行うは実に難し。今ま吾人はこれが実現の手段を索めて大要二種の方策を得たり。一を労働時間の短縮となし、ニを労働の種類の選択となす。請う、まず労働時間の短縮について論ぜん。

 思うに、如何なる種類の刺激といえども、もしその刺激にして或る程度以上に強絡んか、吾人は必ず一定の苦痛を感ずるに至ルものなり。例えば音楽を聴くに、その音声、耳を距ること甚だ遠ければ、吾人はこれに対して固より何らの快感を覚えずといえども、さらばとて耳のすぐ傍にて奏せらるるにては、如何に美妙の音楽といえども、われらはその騒々しさに耐え得ざるべし。演劇を見るにも、近からず遠からずという或る一点あるものにて、或る程度を越して近寄りては、美しく見えし俳優の顔にも、白粉の汗に剥げたるを見るに至るべし。寒き時、外より帰り来りて暖炉にあたらば、最初の中は甚だ快けれど、度を過ぐれば、頭痛を感ずるに至るべく、暑き時、涼風の吹くは誰も心地よしと賞むれど、それにもまた程度あることにて、温度或る程度以上に降らば、また寒しというに至らん。如何に古来稀なる名画なりとも、見ること久しければついに飽くの時あるべく、終日坐してこれに対せよといわるれば何人も苦痛を感ぜざるを得ざらん。またたとえばここに酒ありとせんに一杯また一杯、杯を重ぬるに従うて暫の間は興次第に加わるといえども、それも度を越さば、酒の味次第に減じて全く飽満の極に達し、それより以上酒を勧めらるるはかえって苦痛を不快とするに至るべし。

 これを要するに、距離の関係よりいうも、時間の関係よりいうも、将た分量の関係よりいうも、一定の刺激にして或る以上に強からんか、吾人は必ず一定の苦痛を感ずるに至るものなり。音楽を聴き、演劇を観る、皆な人の楽しとする所なり。寒き時、暖炉にあたり、暑き時、涼風に吹カルル、皆な人の快しとする所なり。名画を賞し美酒を味わう、また人の欲する所なり。しかもこれらのこと皆な一定の程度ありて、これが刺激その度を超えて強絡んか、吾人はついに一定の苦痛不快を感ずるを免れざるなり。しからば、かの長時間の労働に服する余儀なくせられつつある多数の労働者が、常にその労働の負担に苦しむ、何ぞ怪しむに足らん。

 人生の苦痛は過度の労働を強いらるるより生ず。もしその程度を適度に軽減せんか、今日の苦役、半ばは化して遊戯とならん。知るべし、労働を遊戯化するの一策は、その時間の短縮にあることを。

 人生一日も水なかるべからず、しかも水の供給にして過度ならんか、人畜家財を流出してその害をいうべからず。人間また一日も静坐することあたわず。必ず手を挙げ足を投ずることをなす。ただその一挙手一投足に止まらざるが故に、人生に苦痛あり。

『レディになるための魅力講座』

山谷えり子『レディになるための魅力講座』(日本実業出版社 1986)を読む。
主に20代の女性を対象としており、男性の気を引くための振る舞いや会話、化粧方法などの恋愛ハウツー本である。80年代後半当時、揶揄されることの多かったマニュアル本の類である。女性という生き物は、自分を売るためにここまで細かい部分に気を使うのかと、およそ男性には真似できない芸当であると勉強になった。
著者の山谷さんは、現在、自民党選出の国会議員であり、北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会で委員長を務める。はたして、著者の勧める”男性ナンパ術”が国会のセンセイを相手にいかされているのだろうか。