月別アーカイブ: 2016年3月

『さいたま文学紀行』

朝日新聞さいたま総局編『さいたま文学紀行:作家たちの描いた風景』(さいたま出版会 2009)をパラパラと読む。
2006年から2009年まで朝日新聞の地域情報面「埼玉マリオン」に掲載された連載をまとめたものである。古くは在原業平や鴨長明から、吉田修一や北村薫まで、近・現代の文学作品を中心として、100人に近い、さいたまの地を文学の舞台に選んだ作家が取り上げられている。
改めて、特に大正から昭和、平成にかけて埼玉を舞台にした小説が多いことにびっくりした。中には登場人物のモデルとなった人物がたまたま埼玉出身ということで、夏目漱石の『坊ちゃん』や森鴎外の『舞姫』も取り上げられており、「う〜ん」と首を傾げてしまう項もあったが、パラパラと目に付く言葉だけ追っても楽しむことができた。

その中でも、浦和にある埼玉会館の完成を祝って神保光太郎氏が読んだ、「埼玉のこころ」と題した詩が印象に残った。その詩の一節に次のような言葉がある。

混沌と怪異の都会大東京の熱気を
まともにあびて耐えてきた埼玉
いつもおだやかに
いつもうつむき
いつも言葉すくなく
みずからの力を誇らず
埼玉よ などてかくもいじらしいのか

東京の裏庭的な存在の埼玉を絶妙に表現している詩と言っても良い。やや自虐的になりがちな埼玉県民の心理を上手く捉えている。

また、杉戸農高や春日部高で国語の教壇に立った北村薫氏は、埼玉県東部を舞台に作品が多いことについて、「埼玉東部はものの考え方を育んだ場所」と述べ、次のように語る。

見渡す限り平ら。海や山のある土地から来た人は、つまらないと言います。でも、我々にとって平野は日常の象徴。平野の真ん中、その中庸さに、安らぎ、落ち着きを感じる。ここを舞台に作品を書いていくのは、「運命」だと思います。

坂とは無縁の生活をしている埼玉東部地区で生活する私にとって、つまらない風景の中に中庸や安らぎ、落ち着きを見出す北村氏の指摘は、我が意を得たりとうなづいてしまう。

『地球の見方・考え方』

飯森進一『地球の見方・考え方−市民のための地球科学入門』(文芸社ビジュアルアート 2010)を読む。
市民と科学者の対話形式で、宇宙誕生から現在までの時間スケールの捉え方に始まり、地球の誕生から海や山の形成過程、生物の進化など、数式や元素記号などほとんど用いずに分かりやすく説明している。今まで理解ていなかった岩石中のケイ素の働きや、マントルの働木など、基礎的な地学の勉強となった。
おそらく自費出版なのであろうが、十分に高校生向けの参考書として使える一冊出会った。

庄和公園

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ワンボックスの車に自転車3台を積み、真ん中と下の子を連れて、庄和公園へ出かけた。
春を思わせる陽気で、公園内のサイクリングも楽しかった。下の子の補助輪が外れれば、もっと遠くに行けるのに。

公園内を折りたたみ式自転車でふらふらしている時に、公園の中心付近にあるモニュメントにふと目がとまった。公園整備にあたって寄付をした人の名前が刻まれた石碑だと思っていたが、古くは西南の役から太平洋戦争にかけて地区内で戦没された方々の芳名を刻んだ鎮魂碑であった。子どもや家族連れが多い公園の風景に妙に馴染んでいた。

『自転車ツーキニストの憂鬱』

疋田智『自転車ツーキニストの憂鬱』(ロコモーションパブリッシング 2005)を読む。
自転車について新しく書き下ろされたものではなく、自転車雑誌に連載されたコラムや著者が主宰するメールマガジンをざっくばらんにまとめただけの内容である。自転車に纏わる内容も半分程度で、著者の本業のテレビ業界や、社会問題に関する内容も多い。ただし、出版を前提にしたものではないためか、文章そのものもあまり練られておらず、掘り下げも甘いため、さーっと読み飛ばした。厳しい言い方になってしまうが、果たして書籍化する必要があったのだろうか。

「現代文のない現代文教科書」

本日の東京新聞夕刊文化欄の「大波小波」コラムが面白かった。読み終えた後、思わず「その通り!」と心の中で叫び声を上げてしまった。
文章も大変簡潔でも分かりやすかったので、練習も兼ねて全文を書き(打ち)写してみたい。

 いとうせいこうが自作の教科書掲載を拒否したことがネットで話題になっている。教科書会社側から「商品名を伏せ、『馬鹿』という表現を変えて欲しい」という依頼があったことに対し、いとうはツイッターで「”天下の教科書ですよ!”というわけだ。小説を変えていいと思う人が国語の教科書を作っている」と書いた。
 元教科書編集者を名乗る人が反論し、商品名や罵倒語があると文科省の検定を通らないがゆえで「教科書編集者=天下の教科書だと思っている人、ではありません」と言うのに対し、いとうの答えは「だから、載せなくていい」とだけで、あまりにそっけない。
 商品名や「馬鹿」の一言が作品全体にどれほどの影響を与えるのかは場合によるので一概には判断できないが、現行教科書に載っている作品はほとんど検定を通すため何らかの改変を被っている。大家の作品はそうやって多少の改変を経て読み継がれてきたのだ。
 忙しい教員たちが古い定番作品を好む中で、新しい作品を読ませようと編集者たちは努力している。にもかかわらず天下の作者様が無理解を通すなら、そのうち改変に文句の出ない著作権切れの作者ばかりになるだろう。それを現代文の教科書と呼べるのだろうか。(TPP)

いとうせいこう氏に対して、彼自身の言辞を利用して「天下の作者様」と断じてしまう歯切れの良さが印象に残った。確かに、現場の高校の国語の教員は、TPPの指摘する通り、年齢を重ねれば重ねるほど、指導しやすい古典を好むようになる。しかし、教科書に載っていれば指導上扱わざるを得ず、教員の側も教材研究を迫られるようになる。異論反論はあろうが、刺激的な小説や過激な評論ほど教科書に掲載されてほしいと切に思う。