ここ最近、近くのコンビニに並べられている「スミノフアイス(Smirnoff、Смирнов)」というブランドのウォッカにハマっている。
甘いながらもシャッキとしているので、ジュース代わりにがぶがぶと飲んでいる。
一時期ビールだけになったが、また味覚が変わってきたようだ。
日別アーカイブ: 2014年9月4日
西洋史 第1課題
「Erasmusが生んだ宗教改革という卵は,Lutherによって孵化された」との言葉にある。一連の宗教改革はNederland出身のErasmusが古典やGreek語の新約聖書を研究し,当時のRome教会が使っていたLatin語の聖書の誤訳を次々に発見し,Rome教会の権威を揺るがしたことに始まる。教会に束縛されるCatholicのあり方を否定し,聖書に基づき,信仰そのものを重視する姿勢を打ち出した。その著書『愚神礼讃』では,聖職者の道徳的堕落を風刺するとともに,賢さの限界,愚かさのもつ人間性などを愚神の口を借りて語っている。
Erasmusと親交のあったMartin Luterは,豪勢なSan Pietro大聖堂の建設資金を補うための贖宥状を問題にした。贖宥状とは,罪を申告して所定の料金を払った信者に教会が発行する証書のことで,魂の原罪が消えて天国に行けると喧伝されていた。Wittenberg大学の神学教授であったLuterは,「人は信仰によってのみ義となる」と主張し,1517年「95ヶ条の論題」において福音主義を唱えた。1519年Leipzigで行われた公開討論会で,Luterは異端であったHusやWycliffeを容認したため,破門を宣告される。LuterはSachsen選帝公に保護され,Wartburg城で,後の近代German語の基準ともなった聖書のGerman語訳を完成させている。
1524 年,「神の前に万人は平等である」とするLuterの教えが,農奴制廃止を望む農民の利害と一致し,Thomas Munzerらが指導する「農民戦争」が起こる。しかし,鉱山労働者や職人,貧農らによる騒動が過激化したため,Luterは領主らに武力弾圧を呼びかけた。反乱鎮圧後,Luter派の諸侯や都市は,皇帝によるLuter派の禁止にprotestした。1546年,反Catholic・反皇帝派のSchmalkalden同盟が結成され,国を二分する戦争に突入する。1555年Augsburgの宗教和議において,「領主の宗教がその領土で行われる」との妥協が見いだされ,Luterの提起した問題は一応の結末を見ることになった。
Luterと同じ頃,ZurichではZwingliが贖宥状の販売や傭兵取引など教会の腐敗を批判した。市民の支持を得て市の教会をCatholicから分離させることに成功したが,Luterとの連携に失敗し,近隣諸州との戦いに敗れた。
Genevaでも,Catholicの司教を追放し,教会改革を進めていたが,1536年Frenchからの亡命者であるCalvinを招いた。Calvinは,神の絶対性強調し,教会や教皇,人間の意志でさえも魂の救済には関われないという「予定説」を主張し,主著『キリスト教綱要』の中で,「神から与えられた仕事(calling)に励み,倹約を本分とする禁欲的生活を実践することが重要だ」と述べた。この考えは,利潤を追求することに背徳を感じてきたEurope各地の商工業者たちを中心に幅広く支持され,後年Max Weberによって,富の蓄積と新教の職業倫理が資本主義の精神と結びつけられて説明された。Genevaは国際都市であったため,長老主義に基づくCalvinの信仰や禁欲的生活は広く伝えられ,FrenchのHuguenot,HollandのGeusen,EnglandのPuritan,ScotlandのPresbyteriansなどとして活躍することになった。
宗教改革の進展と相俟って,Catholicの側の巻き返しの機運が高まり,1534年Ignatius Loyolaによって,厳戒な規律をを持つJesus会が結成された。Jesus会では海外布教に注力し,1549年に会員のひとりであったFrancisco Xavierが東洋伝道の一環で来日している。
英国では,HenryⅧが王妃Catherineと離婚し,侍女のAnne Boleynと結婚しようとしたが,教皇に反対されたため,1534年国王至上法を発布し,国王を英国教会の唯一最高の首長とし,Rome教会から分離したAnglican Churchを成立させた。理念なき改革であったため,『Utopia』を著したThomas Moreは最後まで反対したが,修道院の土地財産の払い下げの利益を得た資産階級gentryの支持を幅広く得た。Spain王のFelipeⅡと結婚したMary女王は熱烈なCatholicであったため,国教会に激しい弾圧が加えられたが,ElizabethⅠの代になって統一法が発布され,国教会の立場が確立した。
FelipeⅡとElizabethⅠが争っていた16世紀後半,FrenchではHuguenotes戦争が行われていた。1572年には,Saint Barthlemyの虐殺など,新教に対する弾圧は苛烈を極めたが,Bourbon家のHenriⅣが即位し,Nantesの勅令を発して新旧両教徒の権利を同等に認め,信仰の自由を許して国内をまとめ,王権の強化を図った。
16世紀当時の宗教改革は信仰論争であると同時に,現在のIsram原理主義の動きや,1960年の学生運動にも通じる権益争いの側面がある。世俗にどっぷり浸かった既存宗教を批判する人たちは,開創当初の純粋な教義に帰れと主張する。また,学生運動では,抑圧されていた組織が,自分たちより過激な方向に進む分子に対しては徹底した弾圧を繰り返した。宗教改革の一連の流れは,中世から近代への転換点であると同時に,今後の国際的な宗教対立の情勢を占う試金石となるであろう。