本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」は秀逸だった。昨日の「ブロレタリア文学と現代」と同じ人の筆であろうか。文体が良く似ている。
石原千秋が『国語教科書の発想』などで繰り返し批判してきたのは、教科書が作品の多様な読みを展開するためでなく、道徳的な面から見たただ一つの正解に向けて用いられているという教育の現状だった。「こころ」も「舞姫」も、みな「国語」よりも「道徳」を教えるための材料として使われている、というのだ。
批判は、そのことが教師の側でも自覚なく行われていることにも向けられているのだが、たしかにそうだとしても、優れた文学作品に道徳を考えさせる力が内在していることもまたたしかなことだ。そうした作品を扱うときに道徳の問題に触れない方が難しい。だから、問題は「ただ一つの正解」というところにある。
その点、「道徳」が教科化されて、「一つの正解」を教え込まれることの方がよほど恐ろしいのではないだろうか。優れた文学作品には必ず多様な立場、異なる考えを持つ人々が登場する。彼らの繊細な内面を丁寧に推察する、という訓練抜きに、ただ「あるべき道徳」を教え込み、そこで成績をつけるとしたら…。道徳教科化の推進派は、そういう教育によって取り返しのつかない失敗を引き起こした歴史を忘れてしまったのだろうか。「道徳」よりも「歴史」を学び直すのが先だ。(自国民)