本日は10時過ぎに起きて、昨夜の映画の続きを観たり、読書したりしてだらだら過ごした。
昼過ぎに近所のアグリパークに出掛け、食堂の遅い昼食とビールで気持ちよく酔っぱらってしまった。
朝寝、昼寝と読書に映画。昼はカツ丼、夜は鍋。
こういう何もない日曜日が大切である。
月別アーカイブ: 2013年11月
『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」』
勝見明『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」:セブン−イレブン式脱常識の仕事術』(プレジデント社 2005)を読む。
「単品管理」など小売業界の革命とも言われたセブン−イレブンの立ち上げから一貫して経営のトップにいる鈴木敏文代表取締役会長・最高経営責任者(CEO)の経営哲学が余すところなく紹介されている。そしてその氏の哲学に沿って展開される、セブンイレブンジャパンの広告や出店方針、店舗経営、本社と店舗を繋ぐOFC、IYバンクの立ち上げなどが分かりやすく説明されている。
経営者の組織論のまとめとして手に取ったのだが、興味深い話が多く、ついつい最後まで引き込まれていった。彼の経営哲学の根幹にある「顧客の立場」から物事を考えるという逆転の発想を示すコメントを引用してみたい。
私たちが”顧客のために”と考えるときはたいてい、自分の経験をもとに、”お客とはこういうものだ””こうあるべきだ”という決めつけをしています。だから、やってみてうまくいかないと、”こんなに努力しているのにお客はわかってくれない”と、途端に顧客を責め始める。これは努力の押し売りにすぎません。あるいは、”顧客のために”やっていると言いながら、そこには売り手側の都合が無意識のうちに入っていて、実態はその押し付けになっていたりする。私が社員たちに”顧客のために”という言葉は使うなと厳命するのは、決めつけや押しつけを排除するためです。
今の時代に本当に必要なのは、”顧客のために”ではなく、”顧客の立場で”考えることです。どちらも、顧客のことを考えているように見えて、決定的な違いがあります。”顧客のために”は自分の経験が前提になるのに対し、”顧客の立場で”考えるときは、自分の経験をいったん否定しなければなりません。
わかりやすい例が、自分の子どもを叱るときです。おそらく世の親たちは、”子どものため”になると思って叱っているのでしょう。このとき、親は自分の経験から、わが子はこうあるべきだという考えや感情を優先しているはずです。だから、叱っても言うことを聞かないと、お前のためを思って言っているのに、なんで親の言うことがわからないのかとますます子どもを叱ろうとします。
しかし、子どもは日々成長しています。取り巻く環境も親世代が子どもだったころとは大きく変化しています。もし、”子どもの立場で”考え、その心情も理解して叱ったなら、叱り方は大きく違ってくるでしょうし、子どもの反応も変わるはずです。
『パリ20区、僕たちのクラス』
地上波で放映された、第61回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞受賞作、ローラン・カンテ監督・脚本『パリ20区、僕たちのクラス』(2008 仏)を観た。
パリの下町の中学校で、フランス語を教える青年教師と国籍も人種も様々な生徒たちとの丁々発止のやり取りがドキュメンタリータッチで描かれる。
フランスの学校というと自由や哲学といったイメージが強いが、生徒の生活態度を質す三者面談や規律を重んじるための懲罰会議など、日本の中学校と変わらない学校の姿が映し出される。主役のマロン先生の、生徒の気持ちを斟酌したいと思いと、学校全体のルールを重んじなければならない立場の葛藤がテーマとなっている。またその背景となるフランスの排外主義や移民の問題にも触れられている。
日本の中学高校の先生が観ると、日本もフランスも文化の違いこそあれ、教育に対する悩みは万国共通なのだという思いを抱くであろう。
『野村イズムは永遠なり』
野村克也『野村イズムは永遠なり』(小学館文庫 2011)を読む。
東北楽天ゴールデンイーグルスを率いて4年目の2009年6月に刊行された単行本の文庫化である。昨日読んだ『エースの品格』と話が半分かぶっていたので、さーっと読み進めた。
球界暴露話ではないが、野村監督の基準に叶った落合博満氏や若松勉氏に対する賛辞は尽きないが、そうではない古田敦也氏や外国人監督に対する批判は手厳しい。また、王貞治氏についてはそうした賛否を越えた高踏的な人物として評しているのが面白かった。
『エースの品格』
野村克也『エースの品格:一流と二流の違いとは』(小学館文庫 2010)を読む。
「指導者論」レポート作成のために読む。気になったところを引用してみたい。
私が標榜する野球は「プロセス野球」である。結果よりも過程に重きをおく、という意味だ。結果を軽んじているわけではない。逆に、結果がほしければほしいほど、そこにいたるまでの内容を一義的に考えなくてはならない、と言いたいのだ。
「人間的成長なくして技術的進歩はない」
私がよく持ち出すこのフレーズもまた、プロセス野球の一環である。天性の才能だけを頼りにしてプレーしていると、いつか必ず行き詰まる。そのとき、「感じる力」「考える力」を養っていなければ、その闇の中から必ず抜け出す術は見つからない。
すなわち、個々の過程を大事にし、小事細事に気がつく人間のほうが、終わってみればチームに勝利をもたらし、自分の好成績を残していく。やがては「チームの鑑」となって組織に好影響を与え、他の選手の目標となって新たな「鑑」を再生産していくのである。技術的な成果は、人間性を磨くことで初めて手に入るのだ。
プロセスをかたちづくる中心には、「思考」がある。それは、人間という生き物にしか備わっていない崇高な能力である。
思考が行動を生み、習慣となり、やがて人格を形成し、運命をもたらし、そして人生をつくりあげていく。
ようするに、思考即ち考え方は人として生きていくうえでの起点となる概念であり、教育し、経験を積ませることでその重要性に気づかせることが「育成」の基本である。
また、「指導者論」からは外れるが、次のようにも述べる。
キレのいいボールを投げるためには、どうすればよいのか。
近頃では、「腕を振れ」というアドバイスが蔓延しているようだが、これはいったいどうしたことか。多くの投手が「今日はよく腕が振れました」などと試合後に語っていたりもする。なぜ腕に意識がいくのか、私にはとうてい理解できない。
コントロール=キレは、体のバランスが生命線である。ならば、上下半身、左右半身のバランスをとるために、まずはその中心である「腰」を意識するべきではないか。
人間誰しも、下半身に比べて上半身を優先的に使いこなしているはずだ。無意識に体を使えば強い部分が勝り、弱い部分がなんとかそれについていこうとするのは当然だ。腕などは放っておいても器用に反応できる部位であり、意識させる必要などない。腕を中心とした投げ方をすれば、腕は振れる。腰が安定していれば、いいピッチングができるのである。そういう観点から見ると、五十余年のプロ野球人生のなかで、稲尾こそ私がこの目で見た最もバランスのとれたピッチャーだった。その下半身をつくりあげるために、どれほどの努力、鍛錬があったかは想像を絶する。一説によれば、少年時代に小舟の上で櫓を漕ぎながら、バランス感覚が自然と養われたとも伝えられている。いずれにせよ、球史に残る偉業は「腰の安定」がもたらしたのである。