月別アーカイブ: 2012年9月

『対談 中国を考える』

司馬遼太郎・陳舜臣『対談 中国を考える』(文春文庫 1983)を読む。
1974年から1977年にかけて4回にわたって行われた対談がまとめられている。
二人とも同じ年に同じ関西で生まれ、大阪外国語学校の同窓であると初めて知った。
中身は博学なお二人ゆえ、時代は春秋戦国から隋唐、清朝末から辛亥革命までの1000年単位で、地域は日本やヴェトナムから新疆ウイグル自治区まで数千キロ単位で話が展開していく。
中でも、司馬氏1974年の対談時の次の言葉が印象に残った。現代風に解釈すると、異民族をも受け入れるようなグローバルな価値観と、狭隘なローカルな価値観の対比を述べていると思われる。多民族国家である中国を、いつまでも日本と同じレベルでの国家観で捉えてしまう危険性を司馬氏は指摘している。

どこからみるかが大事な問題で、いまはアメリカの方が、日本よりもはるかに中国に対する視点は正確ですよ、遠いから。水平線上にあるから。巨視的に見えるから、本質が見えるわけね。

(中略)僕はとにかく、モンゴルという中国人よりも弱い立場のところから見るから、なんとなく薄ぼんやり中国が見える気がする。(中略)日本という地続きでない国の立場から見ると、わかりにくい。これはほんとうにわかりにくい。中国に松下電器みたいな会社あるかっていうような見方っていうのは、技術主義国家の見方ですね。こんな立場で見たら、どの国もわからんね。アメリカ人には劣等感持つわね、松下電器よりもいい工場あるかもしれんから。だからこういう物の見方はどうしようもないと思います。僕は何も中国贔屓とか、そんなんで言ってるんじゃない。日本人を救う方法として言ってるわけでね。日本人を救う方法は普遍性を知ることであって、普遍性を知る手近な方法は中国を知ることかもしれない。アメリカやフランスも普遍性は多分にあるわけですね。ところが、アメリカ、フランスという文化で眩惑されてしまって、普遍性がよくわからなくなる。それよりも中国の庶民を見てたら、それでいい。インテリを見ずにね。それが日本人には永久にわからないかもしれないけど、これがわからなかったら、日本は自滅するな。

いよいよ世界は普遍性を帯びてゆく。むろん一面では世界は逆に国家時代になってるけどね。小国がいっぱいできて。だけど、それは内在的に普遍性が進行しているわけだから。それがわからなかったら、やっぱり自滅するのと違うかしら。ほうぼうで嫌われてね。ジャカルタでも、バンコクでも、あらゆるところで嫌われると思う。

いつでも日本人が安心立命できて、いい気持ちになれるのは、(中略)自分に特殊ものに隠れていくときに、一番甘美になる。日本的回帰ってよくいうけど、年とったら日本的回帰になる。「ふるさとへ帰る六部の気の弱り」(江戸時代の川柳に、長年諸国を旅した六部も年老いて気が弱るとふるさと近くを回るようになったこと)というやつね。あれはいい川柳やと思うな。頑張って青年時代は普遍性に行こうと思ったけど、気が弱くて特殊性に入っていくわけでしょう。これが日本人全体のメンタリティ。これがある限りは日本はダメになると思う。普遍性をどうやって身につけるかっていったら、マルクスを読んだり、ヘーゲルを読んだり、フランス文学を読んだりすることによって、あるいはアメリカのモータリゼーションに憧れたり、そんなむずかしいことやらんでもいいんですよ。寝たり起きたりしてる中国人を見てたら、それでいい。隣におるんだから、そういう意味での普遍性で国家をつくろうとしてる人間たちが。

(中略)「住民」としての感覚で中国の住民を見ていたら、それでいい。「住民」ということ以外のレベルで、つまり民族論や国歌論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗つづけてきたように、今後もそうなるな。あたりまえのことなんだけど、われわれ日本人にはむずかしいことなんです。

『バイオハザードⅣ:アフターライフ』

地上波で放映された、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演『バイオハザードⅣ:アフターライフ』(2010 英独米)を観た。
気持ちいいのか、気持ち悪いのかすら分からなくなるくらいのリビングデッドとの銃撃・殺戮シーンが続く。前作との続きがよく分からなかったが、物語の設定などどうでもよく、現代版『ランボー』のように、主人公の目に映る「異質」な者が徹底して血を流していく。

『古代中国の虚像と実像』

落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書 2009)を読む。
ちょうど授業で「鴻門之会」を扱っているので、教材研究として手に取ってみた。
夏王朝から秦崩壊後の楚漢戦争までは、正統な歴史書がない頃であり、そのため後年の『史記』や『春秋左氏伝』などの虚飾された「人間ドラマ」を元に歴史が「作られている」と喝破する。
「酒池肉林」で有名な殷の紂王や、秦の始皇帝の人間像、管仲と鮑叔の仲、合従連衡の縦横家、その他史話に出てくる興味深いエピソードがことごとく「創作」であると
述べる。
著者はあとがきの中で次のように語っている。

本書は、虚像をできるだけ排し、古代中国の実像を提示することを試みたが、どちらかと言えば普通の古代社会でありあまり面白味のない歴史だったかもしれない。しかし、それが科学としての歴史学なのだと思う。歴史上の有名人であっても、やはり我々と同じ人間である。過去の人物や社会を理想化しないことが科学的な視点であり、「普通さ」や「面白くないこと」こそがむしろ重要なのではないか。

『読書進化論』

勝間和代『読書進化論:人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか』(小学館101新書 2008)を読む。
昨日読んだ『ケータイ小説〜』とは逆に、ビジネス書を読む意義、そして数万部という本を売るためのマーケティング戦略が語られる。出版業界はあくまでコンテンツ勝負といった職人気質的な雰囲気の残る業界である。しかし、著者はウェブの有効活用や出版のタイミング、効率的な宣伝戦略を駆使することで、ウェブに食われない活字文化を守ることができると述べる。

『ケータイ小説活字革命論』

伊東寿朗『ケータイ小説活字革命論:新世代へのマーケティング術』(角川SSC新書 2008)を読む。
何やら小難しいタイトルがついているが、『恋空』などのケータイ小説の書籍化を手がけた著者のマーケティング成功談である。しかし、著者はヒット作を「仕掛ける」というよりも、作家自身の書きたい欲求や伝えたい思いを丁寧に「掬いとる」ことが大切だと述べる。