毎月最終日曜日の東京新聞朝刊に、立教大学大学院教授の内山節氏のコラムが連載されている。
本日の朝刊もいつものように書き写しながら、その「背景」に横たわる問題を少し考えてみたい。
もしも日本の社会から稲作が消えていくとしたら、それは善なのか悪なのか。この問いに対する答えは、何年かけて消えていくかによって全く違うものになる。
仮に二千年かけて消えていくとするなら何の問題もない。日本の稲作の歴史はおよそ二千年なのだから、それと同じくらいの時間が保障されれば、その間に新しい食文化も生まれるだろうし、農民も新しい農業形態を生みだしながら、稲作に依存しない農村をつくりだしていくだろう。
では十年の稲作を一掃したらどうなのだろうか。これは間違いない間違いなく悪である。なぜならこんな短期間に変えてしまったのでは、私たちの食生活も、農民や農村社会も対応できなくなってしまうからである。このことは自然に対しても言える。自然や生態系も少しずつ変化している。だから自然の変化自体は悪ではない。ところが人間が一方的な開発などをすすめると、自然はその変化に対応できずに崩壊していく。自然が変化に対応していける時間量は保障しないで変動を与えることは、自然の破壊を招くのである。
最近でも、社会の変化にはスピードが大事だという意見をよく聞く。もちろん簡単に直せるものが、既得権にしがみつく人々によって阻害されるのは問題あるが、自然や人間たちが対応するために必要な時間量を保障しない変化は、社会を混乱させ、最終的には社会に重い負担を負わせることになる。
この視点から考えれば、近年の雇用環境の急激な変化は誤りであった。なぜならあまりにも急速に安定雇用の形態を崩してしまったために、この変化に対応できない大量の人々を生み出してしまった。それが生活が破壊されていく人々や就職できない若者たちを数多く発生させ、さまざまな社会不安の要因までつくりだしてしまっている。
年金制度や医療保険制度を変えるときにも、このことは念頭においておかなければいけないだろう。人々が変化に対応する時間量を保障しなければ、たとえどんな改革であったとしても、私たちの社会は、混乱と疲弊の度を増すことになる。
振り返ってみれば、戦後の急速な社会変化や都市社会化も、この問題をはらんでいた。もしも、もっとゆっくり都市社会が拡大していったら、人々は自分が暮らす場所にコミュニティーを生み出すなどして、都市の暮らしに対応した仕組みを自分たちでつくりだしていったことだろう。だが戦後の日本は、その時間量を保障することなく都市を拡大しつづけ、その結果として、今日のような、バラバラになった個人の問題を次々に浮上させる社会を形成させてしまった。
しかも時間量を保障しない変化は、その変化についていける強者とついていけない弱者を、必然的に生み出してしまうのである。ここに弱者と強者が分離していく社会が発生する。さらに述べれば、すべての変化に短時間で対応できる人などいないから、たとえば経済の変化には対応できても、都市社会の変化には対応できない、といった人々は必ず生まれてくる。経済活動のなかでは強者でも、社会生活のなかでは弱者になっている。私たちは介護や認知症といった問題をかかえたとき、この現実に直面することなる。
自然にやさしいとは、自然が生きている時間に対して、やさしいまなざしをもっている、ということだ。同じように、人間の生きている時間に対しても、やさしい社会を私たちはつくらなければいけない。