注文住宅を見に行って、営業の人からもらった、大城義之『家づくりはじめの一歩:誰も話さなかった住宅業界の3つの秘密』(2007)という冊子に目を通した。
日本ではトヨタ神話に見られるように、とりあえず大手であれば安心という傾向が強い。しかし、こと住宅は不透明な部分が大きく、大手を盲信するのは危険だと著者は指摘する。そして何より地元に住み、地元の職人だからこそ揺るがないのプライドに掛けてはどうかと述べる。
月別アーカイブ: 2010年2月
『となりのホストくん』
とのいえちお『となりのホストくん』(幻冬舎 2007)という漫画を読む。
イラストレーター兼ホステスの作者が、ホストクラブでの楽しみ方をわかりやすく語る。
『すべての情報は1冊の手帳にまとめなさい』
蟹瀬誠一&「知的生産」向上委員会『すべての情報は1冊の手帳にまとめなさい』(三笠書房 2008)を読む。
先日、4月始まりのA5サイズのビジネス手帳を購入したばかりだったので、今年度こそは時間や情報をうまくスケジューリングし、自分や家族の時間を確保したいと思い手に取ってみた。
特に目新しい内容ではなかったが、ビジネスや文壇の世界で活躍している人たちの手帳活用を知るというのは大変興味深い。
私は、大体年に1度くらいはこの手の本を読むのだが、まだ自分の手帳スタイルが確立していない。学生時代より、ポケットサイズの手帳やらシステム手帳、「超」整理手帳など様々手を出してきたが、いずれも3年ほどで飽きてしまっている。昨年夏よりA5サイズのノートを活用したところ使い勝手が良かったので、今年は市販の手帳をとことん活用してやろうと思っている。
『戦争と沖縄』
池宮城秀意『戦争と沖縄』(岩波ジュニア新書 1980)を読む。
沖縄の歴史について復習したいと思い、手に取ってみた。琉球が薩摩によって、明治政府によって、そして米軍によって、戦後、再び日本政府よって略奪される 沖縄の歴史が整理できた。沖縄の「琉球いも」が本土では「さつまいも」という名前で広まっていった史実から分かるように、江戸時代の頃から薩摩による支配 が大変強圧的であったことを初めて知った。
上原仁太郎氏の『忘れられぬ体験』(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会編)の一節があまりに残酷であった。
母が死んでから、末の弟があまりのひもじさに泣きやまないので、母のおっぱいを見ると丸くふくらんでいるので、ちょっと 押してみると白い乳がでました。私は弟にその乳を飲ませました。すでに息をひきとった母の死体の乳でしたが、死語二日目ぐらいまで弟はその乳を吸っていま した。
(中略)弟は、母がなくなってから食べさせるものがないので、毎日ワアワア泣いていました。そのころ、日本兵が特攻にいく前だといって私たちの壕にきまし たが、弟があまり泣くものだから、自分があやしてやると、私から弟をひきとって連れていき、まもなく防空壕で変な声がしたので、いってみると、弟は殺され ていました。首にタオルをまきつけられ、顔は紫色の斑点があってむごたらしい姿をさらしていました。
「オキナワの心・平和憲法・米軍基地」
本日、春日部商工振興センターで、東武鉄道労組春日部支部に連絡先を置く労組埼玉東部ブロック護憲集会実行委員会主催の、社民党・照屋寛徳衆院議員の「オキナワの心・平和憲法・米軍基地」と題した記念講演を聞いた。
講演に先立ち、浪江埼玉県平和運動センター議長や日森参議院議員選挙予定候補者や社民党所属の市議などの来賓挨拶があり、さながら社民党の集会のような雰囲気であった。
講演の中で、照屋氏は、オキナワは米軍支配下の27年間は「無憲法」状態であり、本土復帰した後の38年間は「反憲法」状態であると嘆いていた。現在もウ チナーンチュは不発弾や爆音、米軍の犯罪におびえており、憲法13条の生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利や、憲法前文に書かれている「恐怖と欠乏 から免れ、平和のうちに生存する権利」が蔑ろにされ、オキナワでは最高法規であるはずの憲法よりも日米地位協定が上にあるということだ。
また、現在政府で検討されている、世界一危険とも言われる普天間基地の代替としての辺野古移設は、結局は新たな基地の増設であり、到底許されるものではな いと照屋氏は述べる。基地整備には1兆3000億円もの大金が掛かるが、それを他の施策に用いれば何人の命が救えるのか。そして最後に氏は「同情はしない でほしい」という言葉を口にした。それは、米軍基地は沖縄一県の問題ではなく日本全体の問題であるからだ。必要なのは「同情」ではなく、ともに問題意識を 持ち、護憲政党を支持し、行動することだと訴える。
また、基地が撤退したら沖縄の経済や雇用が困るという意見があるが、返還前と異なり、現在の基地収入は県の経済のわずか5%であり、何ら問題はないとい う。沖縄の中心地にあった基地の跡地には商店街が作られ、基地では23人しかいなかった雇用が2万人に拡大した実例を挙げ、基地の撤退、日米地位協定の全 面改定を指摘していた。
ブリタニカ国際大百科事典より
「日米地位協定」
正式には日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」とい い、日米安全保障条約とともに1960年1月19日に調印され、同年6月23日に発効した。日本国憲法に基づく条約であり、施設および区域の特定方法、米 軍の出入国の保障および課税免除、米軍の構成員、軍属およびその家族に対する課税権、民事裁判権および掲示裁判権の所在、日本の協力義務などを規定してい る。
日本国憲法前文第2段
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安 全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地 位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
□ 名護市役所 政策推進部 基地対策室のホームページ □