本日の東京新聞夕刊連載の匿名コラム「大波小波」の文章が印象に残った。
飲んで脱いで騒いで、がもしアイドルでなく作家だったら、捕まって晒されて家捜しされて、とまではいかなかったかもしれない。そもそもの注目度が違うから、ということはあるかもしれないが、しかし、かつて作家はアイドルだった。志賀直哉など有名作家は、新聞にその日一日の行動が載せられていたのだ。だが、彼らが酒癖程度でこれほど批判されたことはないだろう。童話作家のくせに飲めば暴れていたという鈴木三重吉もほほえましい伝説となっている。となれば、何が変わってきたのか。
酒飲みの蛮行を擁護するつもりはない。しかし、蛮行とは何か問うことはできるし、問わねばならない。酒にせよタバコにせよルールは日々厳しくなる一方だが、それはモラルとはなんの関係もない。ルールはこれっぽっちも内面化されず、ただ外側から互いに監視しわれわれを縛る。それはむしろモラルの衰退だ。
かつて作家が作品内だけでも実生活でもルールを破ったのは、スキャンダルを売り物にする芸能人とは違い、モラルを揺るがせ、その本質を問うためだった。とすると今、作家のスキャンダルがあまり話題にならないのは、よいことばかりでなく、モラルというもの全体にとってゆゆしき事態なのかもしれない。
2500年前の中国で展開された、諸子百家の文章を読んでいるような錯覚を覚える。「モラル」を孔子の徳治思想の要である「徳」に、「ルール」を荀子が唱えた法治思想の中心である「礼」に置き換えれば、そのまま論語の世界である。人間とは同じことを延々と繰り返し議論するのが好きな動物なのか。
人気アイドルアイドルグループのメンバーの一人が深酒し、深夜一人で自宅近くの公園で、裸で騒いだだけで逮捕されるという椿事が、マスコミを賑わせたが、これまたおかしな話である。