月別アーカイブ: 2009年1月

パンフレット研究:尚美学園大学

尚美学園大学のパンフレットを読む。
専門学校が母体で、1981年に開学した音楽短大が、2000年に改組されて4年制に移行した新しい大学である。音楽表現学科と情報表現学科からなる芸術情報学部と総合政策学科とライフマネジメント学科からなる総合政策学部の2学部と大学院で構成される。「芸術〜」と「総合〜」はそれぞれ上福岡と川越と別のキャンパスにあり交流はあまりないようだ。「音楽表現学科」は定員140人と少人数制を敷いており、専門学校と音大の両方の長所を兼ね備えている。目的意識のハッキリとした生徒にはお勧めであろう。

しかし、それ以外の学科、学部は理念もカリキュラムも迷走している感が否めない。特にライフマネジメント学科のパフォーミング・ビジュアルアートコースに至っては何を学んでいるのかすら定かではない。大学で学びたいこともなく、さりとて専門学校にも食指の湧かない目標意識の薄い生徒に対して、しぶしぶAO入試を勧めるような大学である。

パンフレット研究:駿河台大学

駿河台大学のパンフレットを読む。
埼玉県飯能市にある中規模大学である。受験界で有名な駿台予備校が母体となって設立された新しい大学である。私が駿台予備校に通っていた十数年前は、駿台でもあまりお勧めされない埼玉の山奥にある新興のこぢんまりとした大学というイメージだった。しかし、パンフレットを読むと、法学部、経済学部、大学院に加え、09年からメディア情報学部や現代文化学部、心理学部が新たに改組・設置されるということだ。
パンフレットの半分以上を授業内容やゼミ紹介に費やしており、大学側の授業勝負の姿勢が伺われる。また剣道部やカヌー部、女子ホッケー部に力を入れているが、他大学のように客寄せの看板としては位置づけていない。

また、他大学にはない特徴としてアウトキャンパススタディ[地域の教育力]なるものがある。パンフレットの説明によると「就職で求められるコミュニケーション能力や社会観・職業観は「地域」を教室として、さまざまな活動をされている方々を先生にした現実社会での実際の活動の中で身につけることができます」とある。地元でのボランティア活動やまちづくり実践、インターンシップや植林といった、元々は学生主体の活動であった自主講座や市民大学的な色合いの勉強を大学が先回りして取り込んでいるのである。こうしたスポーツやボランティアなどの大学の「先回り」は10年前辺りから始まったように記憶しているが、かなり広範囲な大学に広がっているようだ。

「生きる手法~格差と貧困を超えるために」

本日の東京新聞朝刊に、姜尚中東大大学院教授と作家雨宮処凛さんとの「生きる手法~格差と貧困を超えるために」と題した新春対談が二面にわたって掲載されていた。姜氏は戦後日本社会が山谷やあいりん地区などの寄せ場労働者、在日朝鮮人や三井三池闘争での炭鉱労働者など難民を連綿と作り出す社会であったと論じる。一方で雨宮さんは数々の運動を踏まえ、現場から声を上げることで社会は変わる、そして、資本の論理による分断や競争から解放されるような場を作り出すことが大切と述べる。最後に雨宮さんと姜氏は次の言葉で対談を締め括る。先月読んだリサイクルショップ店長松本哉氏の主張とよく似ている。

雨宮:渋谷や新宿で、トラックにスピーカー乗せて音楽をかけ、みんなで踊りながらデモをやっています。五百人で始めると沿道から人が加わり、倍になる。何の意味があるんだろうと言う人もいるけれど、そういう光景を突然路上に出現させること自体が重要だと思う。

姜:日本はこの二十年で都市がこんなにきれいになったけれど、そこに人々を沸き立たせるようなものが途切れて久しい。若者の鼓動が聞こえない。ソウルに行くと、地下鉄に物売りがくる。ニューヨークだと「おれがホームレスになったのはこういう理由だ」と演説をぶつ人がいる。日本は細かいところで順法意識がものすごく強い。僕は食えない人は勝手に物を売ったりとかしていいと思う。社会にもの申すことを根っこから刈り取って無菌状態にしてしまうと、社会が自家中毒を起こし、ひどい結果になります。

『日本の公安警察』

今、公安警察を舞台にした小説を読んでいるのだが、「さくら」や「ちよだ」といった裏の警察事情や、警察庁公安部と警視庁公安部の確執といった話がモチーフとなっており、読んでいるうちに話がこんがらがってしまった。

そこで、数年前に読んだ青木理『日本の公安警察』(講談社現代新書 2000)を読み返した。
警察庁警備局、警視庁公安部、公安調査庁、内閣情報調査室などの日本の公安・情報関係の省庁の役割と現状について分かりやすく書いてあった。しかしいずれの機関にしても、恣意的に「危険」なる人物、状況をでっち上げて、治安管理の錦の旗の下に組織の延命を図るというえげつない組織の論理に支配されている。
「はじめに」の中で著者のスタンスが明確に述べられている。

自自公という不可思議な絶対与党体制が成立して以降、為政者たちが長らく望んでいた監視と管理のシステム強化作業が着実に進められてきた。盗聴法、改正住基法の前にはガイドライン関連法、国旗・国歌法が、後にはオウム真理教対策のための団体規制法が相次いで成立し、破壊活動防止法の改正、さらには憲法改正までが視野に入りつつある。いずれも国家機能強化を図るための一種の治安法の整備作業と言ってよいであろう。
冷戦構造崩壊後、オウム真理教というカルト集団の出現や朝鮮半島を取り巻く不穏情勢など、この国の内外には確かに新たな不安定要素が浮き沈みし、一連の法整備はこれらへの「対応策」との体裁が取られつつ進められてきた。全てがそうではないにせよ、監視と管理機能を強化する治安法整備である以上、その背後に見え隠れするのは警察を筆頭とする巨大な治安機関の姿である。本来ならばその実像は、法制定の過程において情報の公開と議論の対象となるべき一大テーマでもあった。だが治安機関を覆い隠すベールは厚く、漏れ伝わってくるデータは極めて微少で、公刊されている記録はほとんど存在せず、結局はさほど議論の起きないままに治安法整備作業のみが着々と進められてきた。
治安機関をテーマの一つに取材を続けてきた経験則から言えば、実は「対応策」なるものは単なる名目に過ぎず、国家機能の強化自体が目的なのではないのか、そう感じることすら往々にしてあった。なのに治安機関の姿は一向に見えないまま、その機能強化システムばかりが組みあがっていく‐強く感じた(通信傍受法が成立した国会を眺めながら感じた)倦怠感を言葉に変換するならば、こんなところだろうか。

元旦に思う。。。

元旦に思う。。。

映画から帰って、紅白を「あ〜だこ〜だ」言いながらも楽しみ、「ゆく年くる年」の「ゴ〜ン」という映像を見て、ジャニーズのカウントライブを横目にソファの上でだらだらとくつろいでいた。

今は、「朝まで生テレビ 元旦SP激論…がけっぷち日本」を見ながらパソコンに向かっている。午前3時を回っている。昨年暮れから問題になっている派遣切りについて喧々諤々の議論が展開されている。今回の不況の原因と責任、そして解決案について様々な立場から論じている。

思えば、ちょうど10年前の1999年の元旦は、テレビ朝日のスタジオでこの番組を参観していた。確か当時のテーマは日本国家の尊厳といった抽象的な話だったように思う。そして、その帰りに六本木から渋谷へ移動し、宮下公園で行なわれていた野宿者の越冬闘争の手伝いに出かけた。いわゆる「ホームレス」を支援するのは政治的意図があると危険視されていたのか、公安警察に「見守られ」ながらの仰々しいボランティア活動であった。

テレビを見ていると、政治家の机上の空論よりも、NPO法人「もやい」の湯浅誠氏や、フリーター全般労組の山口素明氏、週刊金曜日の編集委員雨宮処凛さんたちの意見は地に着いている。山口氏は96年だったか97年だったか、駒寮斗争の時から押しの強さは変わっていない。当時もチェーンソーを奪い合いながら、廃寮の責任を解体業者に押し付けようとする東大当局に対して怒鳴りつけていた姿が印象的だった。

一体自分は、元旦からだらだらとお菓子を食べながらテレビを見ていてよいのだろうか。
テレビのアナリスト話だと、日本はこれから5年は不況が続くという。これまでの高校教育は、意欲がなく高校を中退たり、卒業してもニートやフリーターになってしまう生徒をなくすことを目標の最低ラインに置いてきた。雇用の流動化や働き方の多様化と併行して、高校教育の多様化も進んできた。通信制高校や総合制、フレックス制など「オンリーワン」を重んじる教育を突き進んできた。小中学校の選択性や単位制高校などこの流れに沿うものであろう。生徒一人一人を重んじる「オンリーワン」という教育は、逆に言えば一人一人は違う人間であり、他者に無関心でもよいという雰囲気を作り出す。90年代後半から携帯電話の普及がこの「孤立化」に拍車をかけてきた。

しかし、この不況を乗り越えていくには、初等・中等教育段階で、ワークシェアリングや組合の活性化などに積極的になれるような、働く同僚を大切にする思いやりや仲間意識を育てていく必要がある。同じ職場で同じ仕事をしながら、賃金体系が全く違う、雇用主が違うことに無関心、同僚の契約が途中で切られようが、遅くまで残業していようが自分とは関係ないといった考え方を教育段階から変えていかなくてはならない。

果てしない道であるが、千里の道も一歩から。とりあえずは、生徒の「個性」やわがままに振り回されることなく、学級活動やホームルーム活動、行事といった「逃れられない」ような教育活動の充実を図っていくべきであろう。
この冬休みを利用し、自分自身の社会を見つめる視座を確立し、そして、あるべき社会像を支える教育の理念を確りと持ち、人づくりをはかっていきたいと思う。

朝の4時を回って頭が回らなくなってきた。。。