村田稔『車イスから見た街』(岩波ジュニア新書 1994)を読む。
生まれて間もなく小児まひにより両足のまひが残り、車イス生活を余儀なくされてきた作者が、段差や、ドア、駐車場など街の中に多くあるバリアーを具に点検し、「みんな」が共に暮らすことのできる街づくりを提案する。一昔前の「24時間テレビ」的な「バリアフリー」論となっている。しかしこれはこれで小中学生には分かりやすくてよい。
月別アーカイブ: 2004年8月
『デジカメだからできるビジネス写真入門』
田中長徳『デジカメだからできるビジネス写真入門』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
銀塩カメラからデジタルカメラへの移行は単にアナログからデジタルへと画質が変わっただけでなく、その使い方に大きな変化をもたらしたということが延々と書き連ねてある。
『働くということ』
黒井千次『働くということ』(講談社現代新書 1982)を数年ぶりに読み返した。
大学生時分に読んだ時はあまり実感のなかった「労働」というものの本質がかなりの実感を持って理解できるようになった。黒井氏は富士重工業で15年間働いた後に専業の作家となった経緯を持つ作家である。彼は資本主義体制下での労働は分業体制により「疎外されたもの」でしかないというマルクス主義的な労働観を援用しつつも、厳しい労働環境の中でこそ同僚との仲間意識や自己実現が可能になるのでは、と新しい労働観を提唱している。
企業に就職することが生きていく上の必要条件だといいたいのではない。労働に出会うことが、労働の中で自己を確かめようとすることこそが人間の成長にとって不可欠な要件であるといいたいだけなのだ。その意味では、企業の中での諦めと慣れによって労働の本質から身をかわすのも、初めから労働を避けて遠ざかろうとするのも、猶予の下にあって労働の一端を齧っただけで労働がいかなるものであるかを理解し得たと軽率に判断するのも、いずれも逃避的な生であると考えねばならぬだろう。
自らの労働を探し求める者は、たとえそれを満足出来る形で手に入れることが出来ないとしても、その意志と力行によって己の生のあるべき姿を垣間みることは出来るだろう。いや、自らの労働とは、自己の外の高みに輝いているようなものではない。むしろそれを求める懸命の営為の内にこそ埋まっている。つまり、自らの労働を求めること自体が自らの労働を作り上げていく。そしてその営みの中でこそ、真に人間らしい人と人との結びつきのあり方を見出すことが可能となってくるのである。
また1960年代に噴出した欠陥車問題については以下のように述べる。
欠陥のある車を売ってしまったのは、確かに過ちであった。その罪を指摘されれば、生産者の側は消費者に謝らねばならぬ。しかし、それなら一体、誰が悪かったためにこのような過ちが発生したのであろうか。いや私が悪かったために欠陥のある商品が世に出てしまったのだ、と心から痛みを感じるような人間がメーカーの内部に果たして存在するものなのであろうか。これは個人の道徳心やモラルを問題にしているのではない。そうではなく、欠陥商品に対して直接責任を負い得るような体制の中で、そもそもわれわれが働いているのかどうか、といった疑問なのである。
今日の企業で働く人間は、もともとそうせざるを得ないような構造の中に置かれているのである。一つの商品を作り出してそれを消費者の手許に届けるまでの全過程のほんの一部にしか参加していない人間に、商品に対して全面的な責任などとりようがないだろう。彼はあまりに多くの部分で免責されてしまっているからだ。免責されるとは、問題の核心から遠ざけられていることに他ならない。誰かが悪いはずのなのに、その誰かはどこにもいないのである。
社会に対して真に責任をとろうとするには、自分の仕事が世の中になまなましく結びつけられているという手応えがなければなるまい。ところが、それを拒まれた形でしかわれわれは働いていない。つまり、生産と消費という社会的な環の中に、自分の足で立っているという実感を持ち得ないのである。働きがいが容易にわがものとならないのは、このことからもうかがえる。
先日来三菱自動車のリコール隠しの問題がマスコミを賑わしているが、三菱車の不審な事故を興味本位に報道したり、経営陣の責任の追求を分かりやすく報じるだけで、車の製造や販売に携わる労働者の「職業意識」が奪われてしまっているという事件の本質を明らかにするような報道はない。人間誰しも、他人に命じられるのではなく、自分の意志によって、自ら納得出来る形で、自分の労働が目に見える形で完成するまで思うままに働きたい、という労働に対する真摯な憧れを抱いている。それは農林水産業や技術職だけでなく、事務職やサービス業に従事するもの全てが抱く労働観である。三菱自動車の問題だけでなく、本日の新聞の一面を飾った福井美浜町の原発事故など、労働者の心理に立ち返って事故が発生した過程を検討していく必要がある。
『不況に負けない再就職術』
中井清美『不況に負けない再就職術』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
仕事一筋に生きてきた人間ほど、リストラや転職不採用といった仕事上の失敗を、人格が否定されたように感じてしまいがちで、うつ病になってしまったり、家族の不和を生じやすいそうだ。作者は現在の厳しい雇用状況においても、再就職や転職における熱意や動機をうまく表現するコツがあり、また中高年だからこそ、就職活動をする過程で自分の生き方そのものを見直すことのできる良い契機だと述べる。
『いじめを考える』
なだ いなだ『いじめを考える』(岩波ジュニア新書 1996)を読む。
いじめ問題というと個別的な問題として、個人的な内面性の分析が中心となってしまうが、それでは日本社会におけるいじめの構造が捉えられないと、あくまで社会的な歴史的な分析から日本におけるいじめの実態を探る。
ぼくの主張は、簡単にいえば、犯罪をゼロにできないように、〈いじめ〉をいますぐゼロにはできない、という認識を出発点にしている。だが、人類は二世紀にわたって、この〈いじめ〉を乗り越える努力をすでにしてきたことを思い出して、それを希望にしよう、というのだ。〈いじめ〉の不幸な事件があるたびに、広い意味での人権を守る歴史を見直すよい機会だと、積極的に受け取り、勉強する。そうしていけば、いつかは分からないが、そのうちに〈いじめ〉はなくなる。そういうぼくの漸進的な主張は、すべての〈いじめ〉を一刻も早く、世の中からなくしたい、と考える人にとって、なまぬるいと思われるかもしれないが、すべて人間的な措置は、人間の体温がなまぬるいように、なまぬるいものだ。ジャーナリズムが何といおうと、青少年犯罪は長い目で見れば、日本では、昭和三十年代をピークに激減といってもいいほど減少してきている。その事実を知れば、〈いじめ〉をなくすのは長い戦いになるから、一息いれることもできるだろう。〈いじめ〉は憎むべきことだが、それは人間社会の憎むべきことの一つにすぎない。それを報じるマスコミのありかたのほうが、病的な社会現象だとぼくは考えている。学校の〈いじめ〉を民族の差別を比較し、また女性差別を比較する。そしてその比較から、展望をえて、希望を引き出したいと思う。
作者の述べるように、1960年代と比べて、少年殺人事件や強盗、強姦、自殺は明らかに減ってきている。マスコミの報道が加熱しているから、増えているように感じるが、学校教育における人間教育は少しずつであるが進展している。しかし横領や窃盗などの軽犯罪における検挙人数は60年代の数倍の数に達する。物を大切にする心が社会全体で荒んできていることの証左であろう。新しい形での環境教育の充実が求めれられる。