今夜テレビ東京の『日経スペシャル「ガイアの夜明け」』という番組を見た。
東京大学が大学内の研究結果を特許として売り出し、新しい形での産学協同路線の評価を探る番組である。目に見え、数字として現れやすい結果をもてはやす大学評価制度の表れである。果たして企業の公害や軍需産業批判など特許にもならず、企業に売り込みも出来ない研究は誰が評価してくれるのだろう。
月別アーカイブ: 2003年12月
『ジョゼと虎と魚たち』
先週の土曜日に、犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』(2003)という映画を渋谷パルコへ観に行った。
仕事が終わってからすぐに出掛けたが、単館上映であり、しかも初日だったので、観れるかどうか心配だったが、いつもながらぎりぎりセーフであった。池脇千鶴演じる脚の不自由なジョゼに対して「こわれもの!」と叫ぶシーンなどにどきりとしたが、極めて普通の恋愛映画であった。
「障害者」の恋愛映画というと変に肩に力の入ったものが多いが、脚の障害を変にクローズアップする事なく、どこにでもありがちな関西の若者の恋愛事情として描かれていた。世間によく言う「バリアフリー」とは公共施設や生活設備などの段差をなくすことだけではなく、「障害」があろうとなかろうと、一人の人間は一人の人間であり、そして時には恋愛の対象としてつき合っていくことが出来る心を持つことだと、見終わった後にしみじみ感じた。決してこの「ジョゼ〜」は人権映画でも、教育映画でもない。単なる恋愛映画である。
『現代イスラムの潮流』
少し古い本であるが、宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社文庫 2001)を読んだ。
9・11のテロ以降、「ムスリム(イスラム教徒)=物騒な、怖い人びと」というイメージがテレビ報道によって喚起され定着されつつある。しかし「イスラム」という語はアラビア語で「平和」を意味する「サラーム」という語から派生しているように、元来ムスリムはアッラーの下での平等社会の形成を目指すものである。「ジハード(聖戦)」も元々は「ムスリムの強い努力を伴う行動」という宗教的な色合いのもので、「イスラム過激派」なるものも欧米による冷戦構造における軍事支援の結果であると著者は述べる。そのためにブッシュ米国大統領の言う個人主義を重んじる「人権」は、平等を尊ぶイスラムの共同体を破壊し、貧富の差を拡大するものでしかない。そうしたアメリカニズム=グローバリゼーションが拡大すればするほど、イスラム自身のアイデンティティを守ろうとする「イスラム原理主義」が台頭してくるという流れは是非とも理解する必要がある。日本でももう数年すれば、イスラムとは違う形で「日本原理主義」なるものが様々な局面で現れてくるだろう。
『アイルランド民謡紀行』
松島まり乃『アイルランド民謡紀行:語り継がれる妖精たち』(集英社新書 2002)を読む。
ちょうどアイヌの人びとのように、家庭にテレビが普及を始め、英米文化の影響が政治を超えて浸透し、ゲール語をベースにした語り物語が危機に瀕しているとのことだ。アイルランド民謡そのもののアイデンティティは見えて来なかったが、「語り」によって人びとが世代を超えて交流し合う場が形成されるというのはよい風習であり、是非とも形を変えてでも続いてほしいものだ。
『海峡の光』
辻仁成『海峡の光』(新潮文庫 1997)を春日部温泉の湯に浸かりながら読む。
函館を舞台にした刑務所の刑務官の心情を丁寧に描く。過去のトラウマや展望のない将来に閉ざされてしまった自らの心の壁を、刑務所の外壁や海岸に囲まれた函館の土地になぞらえる。心理描写と風景描写が奇妙に一致した印象に残る作品であった。ふと地元の春日部温泉が函館の一隅にある温泉に感じられた。