蒼月海里『幻想古書店で珈琲を』(ハルキ文庫 2015)を読む。
神保町の三省堂を思わしき大型書店の本棚の隙間に、魔法の喫茶店がオープンしたというファンタジーである。ニコライ堂やすずらん通り、書泉グランデなど、駿台予備校時代に足繁く通った本屋や風景が出てきて懐かしかった。
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『田園発 港行き自転車』
宮本輝『田園発 港行き自転車』(集英社 2015)の下巻を読み終えた。
賀川真帆・寺尾多美子、脇田千春、夏目海歩子・佑樹の3つの家族の物語が絡み合い、富山県滑川に3つの物語が収束していく。久しぶりに長編を読み終えた疲れが残った。
『田園発 港行き自転車』
宮本輝『田園発 港行き自転車』(集英社 2015)の上巻を読む。
久しぶりにA4サイズの地図帳を取り出して、富山県内の地名を確認しながら読み進めた。
3つの家族の物語が絡み合いながら展開していく群像劇となっている。
かなりのボリュームだったが、一気に読み進めた。
富山から入善町までサイクリングをしている登場人物をして、作者は次のように語らせる。
文化財保護と銘打って、古民家のあちこちを補修して安化粧で装い、「なんとかの道」だとか「なんとかの宿跡地」だとか名づけて、おじさんやおばさんが観光バスで乗りつけても、そのなものはせいぜい十五分も歩けば底が知れてしまって、おいしくもない、というよりも、たいていはまずい草餅とか名代のなんとか蕎麦を食べさせられて、古くて風情のある商家ねェ、なんて言って、それきり思い出しもしない観光用の町が、日本中に造られてしまった。
しかし、そんな人口の名所は映画のセットと同じなのだ。
そこでいまを生きている住人の気配もなければ息吹もない。喜怒哀楽のない、ただ古さだけを売り物にした人工物だ。
『エネルギー改革が日本を救う』
中島洋GLOCOM教授著『エネルギー改革が日本を救う:主役交代、技術・政策・地域が主導する再生可能エネルギー革命』(日経BP社 2014)を卒読した。
興味を引いたところを書き留めておきたい。
私もこのホームページで利用しているさくらインターネットは、現田中邦裕社長が舞鶴工業高等専門学校在学中に創業されている。本社は大阪にあるが、データセンターは北海道の石狩にある。北海道の冷涼な外気を利用した冷房によるエネルギー効率の向上により、電力消費を抑えているとのこと。
常に一定方向から風が吹いているオランダやドイツ、デンマークでは早くから陸上風力発電が普及している。しかし、日本はそうした恒常風に恵まれていないため、陸上風力発電は大きな遅れをとっている。福島県沖で始まった(現在は終了しているが)洋上風力発電は、既存の技術がほとんど通用しない未開拓分野である。
大分県は日本一の温泉県で、源泉数、湧出量ともに日本一である。厳選数は2位の鹿児島県や静岡県を大きく引き離し、湧出量も2位の北海道や鹿児島県をかなり引き離している。
大分県では、2013年から2014年にかけて3カ月ほど、トヨタ車体の超小型電気自動車のコムスを使う実験を行なっている。道路の脇に、屋根付きのバスの停留所のような形状の充電スタンドを設置し、屋根に取り付けた太陽パネルで起こした電気を鉛蓄電池にため、充電するという仕組みである。
福島の原発事故以降、運転中の原子炉だけではなく、使用済み核燃料もプールの中で長期間冷却し続けなくてはいけない、という現実が知れ渡ってしまった。テロの攻撃目標は使用済み燃料の冷却用電源の破壊へと移る。発電会社はその防御のために利益には結びつかない多額の投資を迫られる。
仮に再稼働した場合に増え続ける使用済み核燃料廃棄物をどうするのか。かつて発電の燃料であるプルトニウムを抽出して核燃料サイクルの中で再利用するはずだった。その核燃料サイクルは予定を大きく遅れて運転のめどが立っていない。断念すべきだ、という声も強まっている。
そうなれば、使用済み燃料の持っていき場所がなくなる。一時的に保管すると思っていた原発の脇に設けた冷却プールは満杯に近づいている。短期の保管だと思えば冷却コストも気にならなかったが、期限が見えない保管となると長期間の継続的な多額の経費負担を覚悟しなければならない。これまでは燃料に転換する経済価値のある有形資産として保管してきたが、これからは経済価値のない廃棄物である。それどころか取り扱いに多額のコストがかかる負の資産である。
激しいコスト競争にさらされる発電会社が果たして「原発」を引き受けられるか。まだ総括原価主義を原理とする現在の電力会社にいると実感できないが、発電会社への配属が決まって事業計画を作り直す時になって、「負の遺産」となる原発を、新発電会社が引き受けないだろう、というのが村上憲郎の「経営感覚」である。原発は引き受け手がなく漂流し、表舞台から消えていく可能性は否定できない。
『緑衣の鬼』
江戸川乱歩『緑衣の鬼』(ポプラ社 1970)をさらっと読む。
銀座に巨人が白昼堂々と現れるといういつものパターンである。怪人二十面相は登場せず、冒頭の被害者が実は加害者だったというオチである。
