今日の東京新聞朝刊に、昨日の世界陸上選手権の女子マラソンで銅メダルに輝いた土佐礼子さんの記事が載っていた。その記事中に土佐礼子さんと夫の村井啓一さんの仲睦まじい姿を捉えた写真が掲載されていた。かなりびっくりした。というのも、その写真の村井さんが私にそっくりなのである。写真の写り具合でたまたま似るということはあるが、年齢も同じであり実際の姿も酷似しているのではないだろうか。
東京新聞2007年9月3日付朝刊:夫の応援背に3位浮上 土佐選手「一番苦しい所にいてくれた」
今日の東京新聞朝刊に、昨日の世界陸上選手権の女子マラソンで銅メダルに輝いた土佐礼子さんの記事が載っていた。その記事中に土佐礼子さんと夫の村井啓一さんの仲睦まじい姿を捉えた写真が掲載されていた。かなりびっくりした。というのも、その写真の村井さんが私にそっくりなのである。写真の写り具合でたまたま似るということはあるが、年齢も同じであり実際の姿も酷似しているのではないだろうか。
東京新聞2007年9月3日付朝刊:夫の応援背に3位浮上 土佐選手「一番苦しい所にいてくれた」
板倉雄一郎『おりこうさん おばかさんのお金の使い方』(幻冬舎 2005)を読む。
著者板倉氏は、高校を卒業後、ゲームソフト会社を設立し、91年には、3つ目の会社「ハイパーネット」を設立し順調に業績を伸ばし、栄えあるビジネス賞を総ナメにし、ビルゲイツとも商談、そして、日経新聞の一面を飾るも、97年負債総額37億円で破産したという異色の経歴を持つ。
本書では胴元が必ず儲かる仕組みになっているギャンブルやハイリスクな金融商品、また短期的な利回りに目がくらみ長期的な物の見方ができない人、専業デイトレーダーとなって身を持ち崩してしまうなど、マネーゲームに翻弄される人や社会に対して、あくまで正論で批判を加える。実態経済価値とマネーの乖離が乖離し、通貨そのものに投資して稼ぐような今の世相を嘆く。
「金だけいじくって」年に数千万円、数億円稼ぐ人がいます。自動車会社で、新型エコロジーエンジンを開発し、年収数百万円の人もいます。社会に対して提供した実態経済価値において、前者は、後者より、十倍も二十倍も「えらい」のでしょうか?
(前略)価値を生み出すのは、お金じゃない、人なのです。
井畑敏『独立できるFPできないFP』(近代セールス社 2002)を読む。
証券販売とも保険勧誘とも異なる、ライフプラン全体を見通した資産運用や定年後の資産管理をアドバイスする「ファイナンシャルプランニング」の第一人者である著者による業界の手引き書である。自社の「株式会社FPプラネット」が主宰する独立系ファイナンシャルプランナー養成講座の宣伝が巻末に踊る宣伝本なのであるが、米国でのファイナンシャルプランニング(CFP)を日本に導入し、公認会計士や弁護士などの協力を得ながら日本ファイナンシャル・プランナーズ協会を設立し、認定試験を作成・実施して、業界を築き上げるまでの道のりが分かりやすく書かれている。相談は無料だと考えるものが多い日本において、資産の計画や人生設計のアドバイスだけで顧客を獲得し独立していくFPを育てようとする筆者の意気込みがストレートに伝わってくる。
今日で一応夏休みは終了した。夏休みの始めに誓った一日一冊、合計44冊の読書三昧アクションは実行当初から破綻し、結局計画の7割程度しか実行出来なかった。しかし、かなり面白いなと思う本を何冊か読むことが出来たのがせめてもの救いか。
来年度から日常の忙しさにさらに拍車が掛かりそうなので、今年度の後半はきちんとした勉強の時間を確保したい。
雀の涙ほどしかない夏休みを満喫している。先週練習で腰を痛めたので、昨日、今日と運動を控え、読書や家の清掃に時間を使っている。たまにはこのようなだらだらした夏休みもよい。
昼はソファでだらっとしながらテレビのワイドショーを見るともなく見ていた。4チャンネルも6チャンネルも朝青龍関のモンゴル帰国について持ち切りであった。報道陣は朝青龍関を成田から延々と後を追い、果てはモンゴルのウランバートル郊外の草原まで疾走する車を追いつめていた。
確かに朝青龍関は横綱という看板を背負っている以上、マスコミにとやかく言われるのは仕方がない。しかし、彼とてモンゴルの田舎から単身出てきた26歳の青年である。子どもを抱えているので、たまには仕事をサボって保養することも、親方や理事会から叱られひねくれることもあろう。日本人であればすぐに田舎へ帰ることができるが、交通機関が整っていないモンゴルの草原にはおいそれと帰ることはできない。
とかくマスコミは国技だからという理由にもならない理由を持ち出し、横綱という「神格」を作り出し、封建的で窮屈な鋳型に無理に力士を押し込めようとする。報道を見ていると、日本の国技である相撲は全生活を犠牲にして精進すべきものであり、家族を優先する者や外国人には務まらないものだと言わんばかりである。彼の個人的資質はさておき何とも寂しい限りである。
かつて、文学者中野重治は『五勺の酒』という小説の中で、主人公に次のように言わしめている。
このことで僕は実に彼らに同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。
せめて笑いをしいるな。しいられるな。個として彼らを解放せよ。僕は共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇の天皇制からの解放にどれだけ肉感的に同情と責任を持つか具体的に知りたいと思うのだ。
つまり、中野は天皇という制度こそを厭うべきであり、昭和天皇およびその家族を個人として共感できる気持ちがないと、真に天皇制度を解体していくことはできないと述べているのである。
現在の朝青龍問題を考える際においても、中野の指摘は考慮に置いて然るべきであろう。