雀の涙ほどしかない夏休みを満喫している。先週練習で腰を痛めたので、昨日、今日と運動を控え、読書や家の清掃に時間を使っている。たまにはこのようなだらだらした夏休みもよい。
昼はソファでだらっとしながらテレビのワイドショーを見るともなく見ていた。4チャンネルも6チャンネルも朝青龍関のモンゴル帰国について持ち切りであった。報道陣は朝青龍関を成田から延々と後を追い、果てはモンゴルのウランバートル郊外の草原まで疾走する車を追いつめていた。
確かに朝青龍関は横綱という看板を背負っている以上、マスコミにとやかく言われるのは仕方がない。しかし、彼とてモンゴルの田舎から単身出てきた26歳の青年である。子どもを抱えているので、たまには仕事をサボって保養することも、親方や理事会から叱られひねくれることもあろう。日本人であればすぐに田舎へ帰ることができるが、交通機関が整っていないモンゴルの草原にはおいそれと帰ることはできない。
とかくマスコミは国技だからという理由にもならない理由を持ち出し、横綱という「神格」を作り出し、封建的で窮屈な鋳型に無理に力士を押し込めようとする。報道を見ていると、日本の国技である相撲は全生活を犠牲にして精進すべきものであり、家族を優先する者や外国人には務まらないものだと言わんばかりである。彼の個人的資質はさておき何とも寂しい限りである。
かつて、文学者中野重治は『五勺の酒』という小説の中で、主人公に次のように言わしめている。
このことで僕は実に彼らに同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。
せめて笑いをしいるな。しいられるな。個として彼らを解放せよ。僕は共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇の天皇制からの解放にどれだけ肉感的に同情と責任を持つか具体的に知りたいと思うのだ。
つまり、中野は天皇という制度こそを厭うべきであり、昭和天皇およびその家族を個人として共感できる気持ちがないと、真に天皇制度を解体していくことはできないと述べているのである。
現在の朝青龍問題を考える際においても、中野の指摘は考慮に置いて然るべきであろう。