中国帰還者連絡会『私たちは中国でなにをしたか:元日本人戦犯の記録』(三一書房,1987)を読む。
会の詳細は以下の記載に譲るが、戦時中、性欲を満たすために行った自らの残虐な行為に向き合う主体性と、天皇や上官の命令に従ったまでで自分には責任がないという受動性に揺れる元日本人兵士の葛藤が事細かに描かれている。
以下、法政大学国際文化学部鈴木靖研究室のホームページより
https://hosei-ch.xsrv.jp/wp3/?p=831(2025年7月25日参照)
【コラム】中国帰還者連絡会の結成
1950年7月、ソ連のシベリアに抑留されていた日本人捕虜969名が、建国して間もない中国に引き渡されました。彼らが収容されたのは、撫順にある戦犯管理所でした。
捕虜ではなく、戦犯として収容されたことを知った彼らは、ひどく動揺しました。この戦犯管理所は1936年に日本が開設したもので、戦時中は日本の官憲によって多くの中国人政治犯が捕らえられ、命を落とした場所だったからです。
ところがここでの待遇は、シベリアでの過酷な生活とは全く異なるものでした。管理所の職員たちがコーリャンやトウモロコシなどの雑穀を食べる中、戦犯たちには日本の食習慣にあわせて白米が支給され、健康管理のために定期的な検診が行われ、球技の試合や文芸公演、映画鑑賞、各地への参観や旅行などの活動が定期的に催されました。(中略)
1956年6月、特別軍事法廷が設けられ、戦犯の審理が行われました。戦犯の中には自ら死刑を求める請願書を出した者もいましたが、法廷は罪状の重い45名だけを有罪とし、他の897名を不起訴とする判決を下しました。こうして不起訴となった戦犯は翌年日本に帰国し、有罪となった者も、収監中に病死した1名を除き、1964年3月までに全員が帰国できたのです。
しかし帰国後の日本社会は冷たく、罪を認め、戦争を反省した彼らは、中国共産党に「洗脳」された者とみなされ、就職さえ難しく、日本政府へ提出した補償の請求も却下されてしまいました。そうした中、1957年9月、撫順戦犯管理所と太原戦犯管理所から帰国した元戦犯約1000人が連絡会を結成しました。それが中国帰還者連絡会(中帰連)です。
彼らは「人道主義に基づき、過去の罪業を反省し、侵略戦争に反対し、平和を守り、日中両国の友好発展に貢献すること」を目的に、全国各地で講演会を開いたり、元戦犯たちの証言を集めた出版などを行いました。
同会は会員の高齢化により、2002年に解散となりましたが、2006年、埼玉県川越市にNPO中帰連平和記念館が開設されました。