熊沢誠『格差社会ニッポンで働くということ:雇用と労働のゆくえをみつめて』(岩波書店,2007)を少し眺める。20年ほど前の本なので、正規・非正規問題を切り口に、給与や待遇、人生設計などんの労働問題に踏み込んでいる。
本書の内容のまとめが終章に書かれていたので、そこだけ読んだ。特に1990年代以降、組合の存在感や意味が薄れてきた背景について説明されている。
ここ二〇年ほど、日本の法制や行政はどの側面でも格差を拡大させる役割を果たしてきたといえば、それはラフな断定にすぎましょう。しかし、少なくともEU諸国にくらべれば、そして少なくとも一九九〇年代後半からの動向をみれば、日本の立法や行政はアメリカモデルの新自由主義の方向に大きく舵をとっており、そのことが近年の社会的格差の深刻化に寄与していることは疑いを容れません。たとえばこの頃では、「日本はなにかにつけて規制の多い国↓経済グローバル化の時代には規制は悪↓日本は規制緩和の「構造改革」が必要」という単純な三段論法をとる市場万能主義の言説が目立ちます。けれども、たとえば労働者の生活に決定的な影響をもたらす雇い方・働かせ方・支払い方については、日本は労働市場での弱者を支援する規制がきわめて乏しい、すなわち経営者のフリーハンドが十分すぎるほど認められている国なのです。
このように考えてくると、ほとんどの章で述べてきたところの、二〇〇〇年代の日本において格差を拡大させた労働のありように、労使関係が深くかかわってきたことはあまりにも明瞭です。それはもっぱら経管者のフリーハンドが労働や労働条件の決定を支配してきたというマイナスの意味においてです。逆に、労働者の発言権がそれらに影響を与えるという意味では、労使関係は基本的に機能しませんでした。一九八〇年代以降の日本の労働組合はきわめて無力だったのです。
(中略)にもかかわらず、日本の世論のなかにはさしあたり、ワーキングプアの累積やさまざまの労働者の受難について労働組合の責任を問う論調はあまりみられません。たとえば、月八〇時間もの残業を三六協定で承認している、あるいはそこまでサービス残業を黙過しているような労働組合は、働きすぎによるメンタル・クライシスや過労死に関して問責されてよいと思われます。また、人材請負会社への組合員の「転籍」に承認を与える電機企業の労働組合などは、違法の偽装請負に関して会社と共犯関係にあるともいえましょう。しかしながら、それらを告発する投書や労働者の訴えが「労働組合」にふれることはまずなく、責任追及の対象は企業と政府に限られています。
労働組合に対するこの奇妙な寛容さ。それこそが問題なのです。それは、現代日本の労働者が、既存の労働組合への期待というものを失っていること、そればかりか労働組合の存在そのものが視界から消えてしまっていることの反映だからです。ワーキングプアの代表格、フリーターにしても、学校で「労働者の権利」があまり語られなくなったという事情はあるにせよ、自分たちの雇用不安や低賃金についておよそ労働組合がなにかをなしうるかもしれないと考えたことはないというのが実情でしょう。「えっ、労働組合とか、どっかで聞いたことはあるけど・・・・・」という感じです。
ひとつには、なんといっても、日本の労働組合には、特定企業の正社員(企業別組合のメンバー)ではない関連労働者の労働条件に関する規範意識があまりにも久如しています。同じ職場または同じ仕事で働く非正規労働者の均等待遇のために体を張ることはまずありません。だから、フリーターや派遣労働者や市民が、「組合って身内の利益のために動くだけでしょ」と思うのは当然なのです。
もうひとつには、その「身内」の間でさえも、「平等を通じての保障」という原点が見失われつつあります。能力主義や成果主義による個人選別、労働条件の「個人処遇化」が進んでいることに、組合リーダーは基本的に承認を与えてきました。では、個人処遇化とはなにか。労働条件というものはどこの国でも、法律とか協約で多少とも「横並び」で決まる部分と、個人別の働きぶりの評価で決まる部分に分かれています。そしてもともと個人査定が普及している日本では後者の割合が大きかったけれども、その割合がこの間ますます大きくなってきたということです。
(中略)今は組織労働者の間でも、組合は「私のしんどさ」になにもできないというシラケが広がっています。「組合は労働者に不可なんだよ」と語れる組合員も、今は少ないと思います

