『うさたまの霊長類オンナ科図鑑』

中村うさぎ、倉田真由美『うさたまの霊長類オンナ科図鑑』(角川書店 2005)をぱらぱらと読む。
2003年から04年にかけて新潮社のホームページに連載された、女性が嫌いな女性についてのコラムがまとめられている。単に女性週刊誌的な話題を越えた深い人間観察がなされている。少々長いが「あとがき」を引用してみたい。

「私は女たちが大好きで大嫌い。女たちを憎しみながら愛してるの」と、この本の中で何度も繰り返している私であるが、本当にそうなんだよねぇ。私は四六時中、女のことばかり考えてる。だってねぇ、女って深いよ。良くも悪くも、ディープだよ。どんなにあっさりとシンプルに見えてる女でも、その自意識の闇は、とてつもなく濃くて深い。そして、その闇の深さが、私は好きなのだ。べつに男の闇が浅いなどと決め付けるつもりはないが、男の闇って、ともすれば暴力的あるいは性的な奉公に放出されがちなので、女のような抑圧と歪みに満ちた複雑な生態を作り上げにくく、したがって面白みに欠けるような気がするのである。観察しがいがないっつーの? それに男って、ものすごーく尊大な自意識を隠そうともしないじゃない?でも、女は必ず隠そうとするから、隠し切れない一部が奇妙な形で漏れ出たりして、そこが面白いの。
もうひとつ、女の面白いところは、「自分が他人の目にどう映っているか」を気にし過ぎるあまりに、常に「こう見られたい自分」を人前でプロデュースする傾向が強く、それが「現実の自分」と激しく乖離してしまったり、プロデュースのやり方を間違えてトンチンカンな姿になってしまったり、という様々な失敗を犯してしまう点である。これは、「自分が他人にどう見えているか」に無自覚な、いや、自意識内に明確な自己像というものすら持たない男たちに比べて、きわめて顕著な女の特性だと思う。「男は『見る性』、女は『見られる性』である」という説はよく耳にするが、それが本来のセクシュアリティの問題なのかどうかはさておき、現象としては確かにそのとおりだと強く頷いてしまう私なのだ。
たとえば、AV観賞の仕方だって、男と女じゃ、ものすがい違いがある。男が自分の視点からAV女優を見興奮するのは当然だが、女の場合はAV男優を見て興奮するのではなく、画面中のAV女優を見ながら「AV女優に投影した自分」を第三者(←これは誰かというと、女たちが常に自分をチェックするために脳内に飼っている「脳内他者」である)の視点から眺めて興奮する、という複雑怪奇なエロスを味わっているのだ。つまり、女は「他人から見た自分」に興奮するのよ。〔中略〕
そう、女たちは「脳内他者」を飼っている。その「脳内他者」の目が現実の他者の目と合致していれば、それは「自分を正しく客観視できる女」としてつつがなく社会生活を送っていけるのであるが、ほとんどの女たちの「脳内他者」の目はナルシシズムによって曇らされたり歪められたりしており、それゆえに、ここに並べたようなヘンテコな女たちの生態が出来上がっていくのである。

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