本日の東京新聞朝刊から

毎月末の日曜日の東京新聞の朝刊には、哲学者内山節氏のコラムが掲載される。ちょうど、補習の中で「近代」について扱っているので、自分の文章力の向上も兼ねて、写経ならぬ打経、いや打コラムをしてみたい。

 産業革命が起こり、経済の近代化がはじまると、社会は次第に変化の速さを競うようになっていった。技術開発であれ、新しい市場の確立であれ、速さこそが価値を生み出すという経済社会がつくられていったのである。

この社会にはいくつもの欠点も存在した。変化についていけなくなった企業や商店が淘汰され、変化ではなく継承を大事にする伝統産業は苦境にたたされた。変 化に対応できないとみなされた高齢者は障害のある人々などは、社会的な居場所を失っていったし、急速に変わることのできない自然や、自然とともにおこなわ れる農業なども追いつめられていった。そして誰もが時間に余裕のある生活ができなくなり、それが地域社会や家族のあり方まで変えた。
ところが、このようなさまざまな欠点がありながらも、変化の速さが生み出す経済の拡大に、人々がひきつけられていたのもまた事実だったように思う。変化に よって新しい市場が生まれ、それが雇用の拡大をもたらしながらさらなる変化を促す。二十世紀の終盤までは、このような経済的好循環が、先進国では実現して いたのだから。欠点よりも受け取る果実の方が大きいと、多くの人たちが思ったとしても不思議ではない。
ところが今日ではその果実もえられなくなった。そうなった理由のひとつは中国をはじめとする新興国の台頭で、先進国は低賃金国と競争するという、新しい変 化を強要されるようになった。それは先進国から低賃金への工場移転をもたらしたばかりでなく、非正規雇用の増加をももたらし、雇用の危機を生みだしてし まった。
もうひとつの理由は今日の変化が、市場の拡大ではなく、市場内部の淘汰を促進するようになってしまったところにある。たとえばインターネットの広がりは、 既存の小売店の売り上げ減少や出版社の経営を圧迫する方向で働いたし、デジカメの出現がフィルムカメラ市場を縮小させ、次には携帯電話のカメラ機能の向上 がデジカメ市場を圧迫するというように、新しいものの登場が、市場全体の拡大をもたらさなくなってしまったのである。

こうして変化の速さが経済の拡大をもたらすという近代化のモデルが、今日の先進国では通用しなくなってしまった。このモデルを追いかけていると、矛盾ばかりが顕在化する時代が現れたのである。とすると、どうしたらよいのか。
近代以降の社会は、変化のスピードを上げて経済を拡大すれば、社会も人々の暮らしもよくなるという、一種の「予定調和説」を基本に展開してきた。だが先進 国では、この予定調和説が崩れはじめたのである。そしてそうであるなら、すべての経済活動を変化と結んだ競争にさらすことは、社会や暮らしの維持にとっ て、有効な方法ではないだろう。
むしろ社会のや暮らしの維持にとって必要な経済活動の部分を、過激な変化や競争にさらすことなく拡大していった方がよい。
そのためには、地域が主体となった社会が必要になるだろう。なぜなら何が社会や暮らしにとって必要な経済活動のなのかは、地域を主体にして考えなければ、明らかにできないからである。
先進国の人々はいま、産業革命以降の経済・社会モデルが通用しなくなるという、新しい局面に立たされているのだと思う。私たちが大きな想像力をもつことだけが、この現実を解決していくだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください