齋藤薫『されど“服”で人生は変わる』(講談社 2009)を読む。
年の初めに、自分とは全く無縁の女性向けのファッションや化粧などのオシャレ論に関する本を読んでみた。
のっけから著者は次のように語る。
人は、社会と関わるために、オシャレをする。ひとりぼっちで生きていくなら、オシャレなんて無駄になる。だから女のオシャレには、人との関わり方の個性がそのまま出るものなのである。たとえば、友だちがいない女のファッションはだいたいがひとりよがり。そして、人と話がまるで噛み合わない女のファッションは、やっぱり理解しにくい。女同士はどこかの部分、ファッションによって人と関わり、ファッションを手がかりにするから、相手のファッションが理解できないと、会話もスムーズにいかなくなるのだ。
着る服なんて機能性と清潔感以外どうでも良いと思っている私にとって目からウロコの意見である。さらに著者は次のように続ける。
母親が子供に服を着せる時、心の美しい子になりますようにと願いながら、丹精こめて美しい色合わせや可愛いコーディネートをしてきてくれたら、その子供は間違いなく心の美しい女性に育っている。そして必ずセンスのいいオシャレな女性になっている。また5歳の頃から全部ブランドもので固められてきたような子供は、そのままいけば、やっぱり金持ちとした絶対に結婚しない女に成長していくのだろう。そのくらい、服の躾は人間形成に多大な影響を与えている。
つまり、著者はファッションこそが人間形成の下部構造だと述べるのである。「本当かいな?」とツッコミを入れたくなるのだが、さらに著者はジュエリーについて次のように結論付ける。
ゴールドとシルバーは単なるジュエリーにとどまらない。女にとってもっと特別な、もっと象徴的な体の一部となるツール。だから私たち女はそこに肌色との相性だけでは済まされない、もっと運命的な関わりを感じるのである。つまり、生き方とか価値観とか、女としての決定的なタイプの違い……それが、金か銀かの二者択一にそのままつながるということなのだ。
オシャレに全く興味ない私が読むと、幽霊の存在や超能力の証明などの「トンデモ本」レベルの話が展開される。女性の考え方は男性にとって永遠の謎であるのか、この著者の見解がかけ離れているのかよく分からない。年初から刺激的な内容の読書体験であった。