『戦後教育論』

村田栄一『戦後教育論:国民教育批判の思想と主体』(社会評論社 1970)を手に取ってみた。
20年以上も本棚の奥で眠りこけていた本である。学生時代に古本で購入したものであり、「関書店 250円」というラベルが貼ってある。記憶は全く残っていない。

著者自身の墨塗り体験に始まる戦後教育への懐疑が展開される。あまりに時代が違いすぎ、本論はあまり頭に入ってこなかったが、「まえがき」が格好よかったので一部紹介したい。当時の民青と対決した全共闘運動・ノンセクトラディカルの熱気がもろに伝わってくる文章である。

 いま日本の教育は全面的な改革期に直面している。幼稚園から大学院に至る教育階梯を、「国益」と「労働力造出」を軸にして再編しようとする中教審構想がその青写真である。これは、70年安保を経てアジア市場への本格的「進出」を意図する日本帝国主義の動向に歩調を揃えた「内政」の最重要課題として提出されているものだ。

一方、70年前夜に全国の大学・高校でたたかわれた学園闘争において確認されたのは、いまや、「戦後民主主義」や「学園の自治」がその内実を喪失して、「支配」の外被へと逆転してしまっているということであった。投票箱(代議制)と多数決を否定的契機としてラディカルな直接行動と、そのための全共闘組織が生まれ、「学園解体」「反教育」ということばで日本教育総体への根底的批判が提起された。

いまぼくたちは、あらゆる意味で、戦後民主主義、戦後教育などに対して「擬制の終焉」を宣告せねばならない。

ところが、戦後一貫して「平和を守れ」「民主主義を守れ」という合言葉のもとに、情況との政治的・思想的対決を避け、「平和」「民主主義」をマイホーム主義的エゴイズムの水準にまで矮小化してきた「革新」勢力は、「教育権は国民にある」とする教科書裁判一審判決に狂喜し、「民主教育守れ」とする「保守」的発想をさらに固めるのみなのだ。

家永判決のもつ画期的な意義についてはさておき、やはりそれを戦後民主主義の廃墟に立った蜃気楼として、それへの拝跪を拒絶しきる主体的な姿勢こそが必要なのではないだろうか。現実批判の彼方に新たな展望をひらくために、ぼくたちは幻想を捨て、守るべき民主教育などは実在しないのだということを確認し、戦後教育のバランス・シートを明らかにせねばならない。そうしないと、現実に進行しているのが、戦後教育どころか、新たな「戦前」教育なのだということを見逃す重大な歴史的錯誤に陥るのであろう。

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