『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社 1996)を読む。
今年もノーベル賞受賞が噂されている作家村上春樹氏と、ユング研究で有名な精神科医河合隼雄氏の対談集である。文学論や日本人論、身体論、刊行当時の村上氏の最新作『ねじまき鳥クロニクル』を巡る暴力論など、話のテーマが次々に駆け足で移っていく。
後半はざっーと読み流してしまったが、村上氏の小説に対する素直な真摯な思いが印象に残った。その中の一節を引用してみたい。20年前の文章であるが、ネットが日常の一部、いや全てになった現在読んでも、全く遜色ない考え方が示されている。

 最近小説が力を失ったというようなことが巷間よく言われるわけですが、(中略)僕は決してそうは思いません。小説以外のメディアが小説を越えているように見えるのは、それらのメディアの提供する情報の総量が、圧倒的に小説を越えているからじゃないかと僕は思っています。それから伝達のスピードが、小説なんかに比べたら、もうとんでもなく早いですね。おまけにそれらのメディアの多くは、小説というファンクションをも、自己のファンクションの一部としてどん欲に呑み込んでしまおうとする。だから何が小説か、小説の役割とは何か、という本来的な認識が、一見して不明瞭になってしまっているわけです。それは確かです。
 でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさ(あるいはつたない個人的営為)にあると思うのです。それを保っている限り、小説は力を失わないのではあるまいか。時間が経過して、そのような大量の直接的な情報が潮を引くように引いて消えていったとき、あとには何が残っているかが初めてわかるのだと思います。
 だいたい、巨大な妄想を抱えただけの一人の貧しい青年が(あるいは少女が)、徒手空拳で世界に向かって誠実に叫ぼうとするとき、それをそのまま——もちろん彼・彼女が幸運であればということですが——受け入れてくれるような媒体は小説以外にそれほどたくさんはないはずです。
 相対的に力を失っているのは、文学という既成のメディア認識によって成立してきた産業体質と、それに寄り掛かって生きてきた人々に過ぎないのではないかと、僕は思います。フィクションは決して力を失っていない。何かを叫びたいという人にとっては、むしろ道は大きく広がっているのではないでしょうか。

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