『スペインの墓標』

五木寛之『スペインの墓標』(実業之日本社 1976)を読む。
予備校時代か大学時代に読んだのであろうか。長い間本棚の奥に眠っていた本だ。
カタルーニャ州で独立の賛否を問う住民投票のニュースを見て、ふと手に取ってみた。

一流ラジオ局のプロデューサーが、ある日突然その地位を捨て、スペインへと姿を消し、戦後のフランコ将軍の独裁体制に異を唱える地下放送局の一員となった中年男性の姿を追う表題作の他、現代版特攻隊である暴走族を描いた『優しい狼たち』、見栄と欲得がうずまくスタジオで、代議士のイメージソング制作に携わる男たちを描く『フィクサーの視界』、学園闘争吹き荒れた時分のタンゴ喫茶を追い求め続ける『遥かなるカミニト』など5作が収録されている。
どの作品も、執筆当時の作者の気持ちを代弁したのか、学生時代にしみ込んだ反体制な考え方と、流され続けていく資本主義社会に狭間の中でモヤモヤを抱えたまま生活している30代後半から40代の男が物語の主人公となっている。

『スペインの墓標』の中で、家族や仕事を捨てて、スペインでフラメンコダンサーと共に生活を始めた佐野は、同じく学生運動の同士であった旧友に向かって次のように語る。1・2年前の自分に向けられた言葉のようで印象に残った。20年前の学生時代に読んだ際にも、中年おやじになったら読み返してみようと思ってわざわざ残しておいたのかもしれない。

反権力、反体制、そして人民大衆のため——。こいつがおれたちのアキレスの踵なんだよ。いちど運動に参加した人間は、そいつに噛まれた傷跡を心の底に必ず残しているような気がするね。たとえ企業内で転向して、立身出世主義者の道を選んだとしても、どこかにその傷跡が残っていて、時々不意にしくしくうずき出すことがある。わかるかね。そんな感じが。

自分の今の生き方、職業、家庭、地位、そんなものが、急にふっと空しい、つまらないものに見えてくる。毎日あくせく仲間を裏切ったり、嘘をついたり、見栄を張ったり、自分をごまかしたり、いろんなことを習慣的にやりながらおれたちは生きてるんだ。それは何のためだ? 精々が同僚より早く出世したり、小遣をごまかしたり、女房以外の女と寝たり、そんなつまらん事のためじゃないか。毎日自分をすりへらして生きるのはいい。だが、それが何のためかを考えるとき、突然なにもかもが色褪せて見えてくる。おれは一日に一度は必ずちらとそんな空白の一瞬を持ちながら何十年か生きてきた。お前さんだって、そんな瞬間がないとは言わせない。そうだろ?

そこさ、だが、人間ってみんなそうなんだと自分で言い聞かせてその一瞬の問いを無視するのさ。そして習慣的に生き続ける。だけど、そういった日常感覚の破れ目に、ある強い風が吹き付けると思いがけないおおきなほころびになることもある。

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