高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫)を読んだ。
69年に立命館全共闘に参加しながらも、自己の悩みに耐えきれずに鉄道自殺してしまった二十歳の大学三年生の日記である。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」というフレーズが有名である。一大学生の日記なので「作品」として書かれたものではないが、心打つものがあった。人間は自由であろうとすればするほど体制の矛盾が自己の矛盾としてあらわれる。だからこそ心の中にバリケードを、ブルジョワ性の否定のバリケードを築かなくてならないと彼女は日記に綴っている。そして彼女の日記には次ようなくだりがある。
現在の資本が労働力を欲しているが故に、私は、そして私たちは学力という名の選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商となってゆく。すべては資本の論理によって動かされ、資本を強大にしているだけである。なんとなく学生となった自己を直視するとき資本主義社会、帝国主義社会における主体としての自己を直視せざるをえない。それを否定する中にしか主体としての自己は存在しない。外界を否定するのではない。自己をバラバラに打ちこわすことだ。なんとなく学生になった自己を粉砕し、現存の大学を解体する闘いが生れる。大学の存在、大学における学問の存在は、資本の論理に貫かれている。その大学を、学問を、教育を、また「なんとなく学生になったこと」を否定し、私は真の学生を、それこそ血みどろの闘いの中で永続的にさがし求めていく。大学の存在は反体制の存在でなければならない。
しかし彼女のそうした自己否定が、当時の女子学生の誰しがもつブルジョワ的(あまり好きな言い回しではないが)甘えの感情すらも否定してしまったことに悲劇がある。彼女の自殺の四日前の詩にこの点が表われている。
暗やみの中で 静かに立っている私
今日はじめて夜の暗さをいとしく感じる
暗い夜は 私のただひとりの友になりました
あたたかく私を つつんでくれます
夜は
己のエゴを熾烈に燃やすこと!
己のエゴの岩漿を人間どもにたたきつけ
彼らを焼き殺せ!
彼らに嘲笑の沈黙を与えよ!
彼女は自殺する半月程前に恋人との一方的な片思いに破れ、両親と衝突し、話す友人を失ってしまった。そしてブルジョワ社会で感じる「寂しさ」を彼女自身が必死で切り捨てようとした結果、彼女には自殺しか道は残されていなかった。彼女は孤独と懸命に付き合ってきたが、孤独「感」は彼女にとって資本主義社会の中の疎外された人間関係に根差しているもので否定しなければならないものだったのだ。自殺の二日前に彼女が知人に「アナーキズム思想史」の本を送っているのが象徴的だった。彼女は必死で心の中に抱える孤独「感」を肯定してくれるものを探していたのだ。しかし当時も、現在もそのようなものに出会うことは難しい。