内田康夫『十三の墓標』(祥伝社 1992)を読む。
1987年に刊行された本に加筆・訂正を加えたものである。
名探偵浅見光彦は登場せず、警視庁の岡部警部の部下である坂口刑事が活躍する。全国各地に存在する和泉式部の墓や遺跡をモチーフに話が展開する歴史ミステリーである。内田作品初期の少し堅い雰囲気のある作品である。作品の展開と連動しながら、頭の中の地図がぐるぐると動いていった。1981年に実際に起きた余部鉄橋の列車転落事故が作品に絡んでおり、昭和という時代の歴史も合わせて感じることができた。最後はいつもどおり強引な展開で締めくくられてしまうが、ソアラで高速道路を疾走する浅見光彦シリーズとは異なり、鉄道の車窓からのんびりとした昭和の風景を一緒に味わえるのが一興である。
日別アーカイブ: 2018年10月14日
オウム死刑囚全員執行の問題点
以下、救援連絡センターのMLから
7月6日に東京拘置所で松本智津夫(麻原彰晃)さん、土谷正実さん、遠藤誠一さん、大阪拘置所で井上嘉浩さん 、新實智光さん、広島拘置所で中川智正さん 、福岡拘置所で早川紀代秀さんの死刑が執行され、20日後の26日に名古屋拘置所で宮前一明さん、横山真人さん、東京拘置所で端本悟さん、豊田亨さん、広瀬健一さん、仙台拘置支所で小池泰男さんの死刑が執行された。13人の死刑執行は21世紀日本の大虐殺事件といえるだろう。
今回の執行はとてつもなく大きな問題を孕んでいる。それはひと月に13人の死刑執行という数の問題だけではない。7月6日の執行では同一事件同時執行という原則を破り、まず教団の省庁の「大臣」だった者を選んで執行を行っている。これは確定順でも判決で認定された事件別でもなく、オウム真理教の元「幹部」を執行することで、オウム真理教という組織を抹殺するという政治的な意思を見せつけるものだ。
そしてもう1つの大きな問題は再審請求中の死刑執行だ。昨年7月に大阪で再審請求中の1人の死刑囚の執行が行われたが、彼は同じ理由で再審を繰り返す者への執行はためらわないことを法務省はこれまでにおわせてきた。しかしその再審の可否のを判断するのは裁判所であって法相ではない。法相は裁判所を無視して執行をしているのである。
12月には弁護人をつけて再審請求をしていた2人が執行された。1人は第四次再審請求で裁判所から求意見が来ており、もう1人は第3次再審の即時抗告中だった。ここで再審請求中であっても裁判所の決定を待つことなく執行することを法務省は明確にしたのだった。
今回は13人中10人が再審請求中であり、そのうち5人は一度目の再審請求中だ。これまで1度目の再審請求中のものが執行されたことはないはずだ。再審請求の内容も見ず、裁判所の判断を待つことなく、問答無用で死刑執行命令書に署名する。そのくせ上川陽子法相は「裁判所の十分な審理を経た上で死刑が確定した。慎重な上にも慎重な検討を重ね、執行を命令した」と記者会見で語っている。
今年になって冤罪の可能性が極端に高いにもかかわらず死刑を執行されてしまった飯塚事件の久間三千年さんの死後再審を福岡高裁が認めず、袴田事件の静岡地裁の再審開始決定を東京高裁は6月11日に再審開始せずとの決定を出した。それは死刑再審は国が絶対に認めない、国の過ちは認めないという宣言だ。そして今回、驚くべきことに1度目の再審中の者まで死刑を執行するというとんでもない段階に入ってしまった。 誤った裁判を訂正すべき再審制度を国は認めないのである。
もうひとつの問題は、法務省は確定順の死刑執行を心掛けて来た。再審請求中、恩赦申立中、心身の重篤な病気の者、高齢者、共犯者が逃亡中あるいは共犯者が再審申立中の者を除外し、ほぼ確定順の執行が原則だった。もちろん法務省は公式には執行の順番は言わないが、そうでなければ執行の公平さに欠けるから、ほぼ確定順というのが慣例であった。それを今回は恣意的にねじ曲げての執行だった。6日に執行された松本さんは確定順だと38番目だから早すぎることは確かだ。
今回の執行は、今後国は1度死刑が確定すれば、誰であれ恣意的に執行できる前例を作ってしまった。順番だけではない、同時に執行する人数もこれまでのような2、3人ではなくなるかもしれない。国は死刑が確定すれば、誰でもいつでも殺す力を持ってしまったのだ。
執行抗議集会開催
2度目に執行のあった日の翌27日、フォーラム90とアムネスティ・インターナショナル日本、監獄人権センター、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークの四団体は文京区民センターで抗議集会を持った。今回の異常な執行に驚愕し、危機感を抱えた300人が会場に詰めかけた。集会は6日の7人執行に対する抗議集会として準備していたが、急遽、26日に執行された6人の関係者にも登壇をお願いし、長時間の集会となった。
まず安田好弘弁護士が松本さんの再審弁護人として、地下鉄サリン事件の共謀をしたとされている「リムジン謀議」なるものは存在しなかったという新証言をもとに第4次再審請求を行い、かつ人身保護請求をしたことを明かした。また心神喪失状態で10年以上拘置されているので本人の生死すら誰も目撃できていないので、法務省矯正局へ拘置所で本人を確認させてほしいとの請願を行い、法務大臣に死刑執行中止命令を出せという訴訟をしたが期日が入らないまま執行された。恩赦の出願は心神喪失状態の本人は書けないのでお子さんの委任でやったが拘置所は出願書を送り返し、恩赦そのものさえ拒否した。そういうなかで今回の執行が行われた。
大逆事件(幸徳事件)では24人が死刑判決を受け、12人が恩赦となった。いかに安倍政権とはいえ13人全員執行ではなく、恩赦もありうるのではないか。というのも横山さんのケースは死者が1人も出ていないのに死刑、井上さんは1審で無期だったのが2審で逆転死刑になっている。しかし甘い見通しで大逆事件の12人執行を越える執行となり、死刑を巡る状況が100年以上逆戻りしたと語った。
続いて端本悟さん、新實智光さん、遠藤誠一さん、林(小池)泰男さん、井上嘉浩さんの弁護人からそれぞれの人物像と再審の動きが話され、豊田亨さん、中川智正さん、横山真人さんの弁護人や支援者からのアピールが朗読された。また宮前一明さんがかつて死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金に応募した絵画作品が会場に展示され、執行された日に投函された彼のアンケートの一部を司会が読み上げた。そこにはこう書かれている。
「名拘へ移管して4カ月目の7月6日。麻原を含む7名の即執行には覚悟していただけに、どうして某が残ったのか? とも考え、その後、前世の兄弟を失う如く大きな喪失感に包まれたものです。これは、彼らの御両親の念と重なるからです。麻原が存在しなければ、世のため人のために、人生を歩むはずの彼らが、どうして麻原と一緒の刑にと……。生き証人として果たすべくことは沢山あるのに、残念なことです。」
続いて監獄人権センター代表の海渡雄一弁護士、オウム家族の会の永岡英子さん、作家の森達也さんが話し、抗議声明を採択して集会は終了した。
ところでなぜオウム死刑囚に関してはここまで乱暴な執行がなされたのか。処刑されたほとんどの人が矯正可能な人たちであることは明らかだ。しかし問題はそこにはないのだろう。オウム真理教を国家の敵・民衆の敵という存在としてイメージを作り、それを抹殺する国家の力を安倍政権は誇示したかったのに違いない。ビン・ラディン暗殺をホワイトハウスで中継で見ていたアメリカ大統領と安倍内閣は重なる。
1998年12月30日、韓国では23人の死刑確定者が執行された。それから20年、韓国では死刑執行はない。私たちの住む野蛮国・日本が今後韓国の道を歩むか、それともさらなる死刑大国への道を歩むか。死刑執行停止・死刑廃止へむけて、私たちのやるべきことは多い。
(深田卓/死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90)
「上野村の『コンビニ』」
本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラムが掲載されていた。文章を味わいながら引用してみたい。
20世紀を代表する経済学者、ケインズは、資本主義を支持した人であった。指示した理由は、資本主義以上に効率的な経済システムはないというところにあったのだが、なぜ効率的なのかと言えば、すべてをお金に換算していくシステムだからだと彼は考えていた。社会の習慣やしがらみに影響されることなく、お金の取引だけで経済を運営することができる、と。
実際、今日の社会はこのような方向で、効率のよい経済を追求してきた。しかしそれは、企業活動にとっての効率性であって、昔から受け継がれてきた仕事や、暮らしにとっての効率性ではないことも、忘れてはいけないだろう。
私は群馬県の上野村という山村にも家がある。1300人ほどが暮らすこの村には、コンビニがない。ところが村の人たちは、「そんなものはいらない」と言う。なぜなら、隣の家がコンビニだからだ、と。確かにそのとおりで、何か不足しているものがあったら、村では隣の家に行けば解決する。どこの家でも必需品は買い置きがあって、提供してくれるのである。良好な関係があれば、困ったことが発生しても村人が解決してくれる。
村の生活は、一面ではとても便利で、効率がいい。畑に行けば野菜があるというのも効率がいいし、山菜や茸が近くで採れるという効率のよさもある。私にとっては夕方ふらっと釣りに行けることも、家にいるだけで鳥や虫の声を楽しんでいられるのも、都市にはない便利さである。
企業活動にとっては、すべてがお金の動きになる経済は効率がよいかもしれないが、暮らしはもっと複雑なのである。もちろん、すべてをお金で決算できる暮らし方に便利さを感じる人もいるだろう。逆に、お金を使わなくても、いろいろなものが手に入る便利さや効率のよさに、魅力を感じる人もいる。
資本主義というシステムは、企業活動を効率よく展開させる仕組みでしかないのである。だから暮らしにとっては資本主義とは異なる効率性も存在するし、昔からあった仕事にも、資本主義的ではないさまざまな支えを必要とするものがある。たとえば農業もそのひとつで、農業はお金の力だけで実現できるものではない。それは自然と人間の共同作業であり、農村社会や農の営みを直接、間接に支えてくれる多くの人々がいてこそ成り立つ。町の商店や職人の仕事も、お金の力だけではないものに支えられている。
だから、資本主義的なシステムがすべてだというような社会をつくってしまうと、社会は多様性とともにある豊かさを失うのである。やせ細った社会がつくられ、資本主義の原理によって、大事なものが壊されてしまう。
今日とは、人々がそのことに気づきはじめた時代なのだと思う。よい環境に支えられた仕事、地域に支えられた仕事をつくろうとする人たちも、農村などに移住する人も増えてきた。
現在の問題は、そのことに政治家や企業経営者が気づいていないことにある。ここでは依然として、アベノミクスに象徴されているように、効率のよい資本主義をつくり、市場経済を拡大させるという発想しか存在しない。
豊かな社会は資本主義的な経済だけではつくれない。資本主義は万能のシステムではないのだということを感じ取れる感性を、いまの時代は必要としている。
内山氏はケインズを例に出しながら、経済に絞って話を展開しているが、効率性を求める陰で進行する負の側面への気遣いが必要であると示唆している。
本日の東京新聞埼玉版に、小泉元首相が原発ゼロと自然エネルギー活用の実現を訴える講演会の模様が写真入りで掲載されていた。同じ内容の話ではあるものの、手を変え品を変えつつ、繰り返し繰り返し伝え続けるという姿勢は大事にしたい。