「上野村の『コンビニ』」

本日の東京新聞朝刊に、哲学者内山節氏のコラムが掲載されていた。文章を味わいながら引用してみたい。

 20世紀を代表する経済学者、ケインズは、資本主義を支持した人であった。指示した理由は、資本主義以上に効率的な経済システムはないというところにあったのだが、なぜ効率的なのかと言えば、すべてをお金に換算していくシステムだからだと彼は考えていた。社会の習慣やしがらみに影響されることなく、お金の取引だけで経済を運営することができる、と。
実際、今日の社会はこのような方向で、効率のよい経済を追求してきた。しかしそれは、企業活動にとっての効率性であって、昔から受け継がれてきた仕事や、暮らしにとっての効率性ではないことも、忘れてはいけないだろう。
私は群馬県の上野村という山村にも家がある。1300人ほどが暮らすこの村には、コンビニがない。ところが村の人たちは、「そんなものはいらない」と言う。なぜなら、隣の家がコンビニだからだ、と。確かにそのとおりで、何か不足しているものがあったら、村では隣の家に行けば解決する。どこの家でも必需品は買い置きがあって、提供してくれるのである。良好な関係があれば、困ったことが発生しても村人が解決してくれる。
村の生活は、一面ではとても便利で、効率がいい。畑に行けば野菜があるというのも効率がいいし、山菜や茸が近くで採れるという効率のよさもある。私にとっては夕方ふらっと釣りに行けることも、家にいるだけで鳥や虫の声を楽しんでいられるのも、都市にはない便利さである。
企業活動にとっては、すべてがお金の動きになる経済は効率がよいかもしれないが、暮らしはもっと複雑なのである。もちろん、すべてをお金で決算できる暮らし方に便利さを感じる人もいるだろう。逆に、お金を使わなくても、いろいろなものが手に入る便利さや効率のよさに、魅力を感じる人もいる。
資本主義というシステムは、企業活動を効率よく展開させる仕組みでしかないのである。だから暮らしにとっては資本主義とは異なる効率性も存在するし、昔からあった仕事にも、資本主義的ではないさまざまな支えを必要とするものがある。たとえば農業もそのひとつで、農業はお金の力だけで実現できるものではない。それは自然と人間の共同作業であり、農村社会や農の営みを直接、間接に支えてくれる多くの人々がいてこそ成り立つ。町の商店や職人の仕事も、お金の力だけではないものに支えられている。
だから、資本主義的なシステムがすべてだというような社会をつくってしまうと、社会は多様性とともにある豊かさを失うのである。やせ細った社会がつくられ、資本主義の原理によって、大事なものが壊されてしまう。
今日とは、人々がそのことに気づきはじめた時代なのだと思う。よい環境に支えられた仕事、地域に支えられた仕事をつくろうとする人たちも、農村などに移住する人も増えてきた。
現在の問題は、そのことに政治家や企業経営者が気づいていないことにある。ここでは依然として、アベノミクスに象徴されているように、効率のよい資本主義をつくり、市場経済を拡大させるという発想しか存在しない。
豊かな社会は資本主義的な経済だけではつくれない。資本主義は万能のシステムではないのだということを感じ取れる感性を、いまの時代は必要としている。

内山氏はケインズを例に出しながら、経済に絞って話を展開しているが、効率性を求める陰で進行する負の側面への気遣いが必要であると示唆している。

本日の東京新聞埼玉版に、小泉元首相が原発ゼロと自然エネルギー活用の実現を訴える講演会の模様が写真入りで掲載されていた。同じ内容の話ではあるものの、手を変え品を変えつつ、繰り返し繰り返し伝え続けるという姿勢は大事にしたい。