昨日の東京新聞夕刊に、進学を機に東京へ転入する若者の増加を抑え、東京一極集中の是正を目指すために、東京23区の大学定員増を2018年から10年間原則として認めないとの閣議決定がなされたとの記事が掲載されていた。また、大学教育を所管する林芳正文部科学相が記者会見で「地方の多くの人が東京に転入している現状があり、魅力ある地方大学の振興と併せて東京二十三区の定員抑制に取り組むことが必要だ」と述べ、地域経済を支える産業の育成を狙いとして地方大学への交付金を創設する新法案も決定されている。
本棚の整理のために、雑誌「発言者」(西部邁事務所 1998年1月号)をパラパラと読んでいたところ、絓秀実氏の郊外大学批判の論考が目についた。上記の記事によると、地方大学に学生を呼びこみ、補助金による地域の活性化を目指すとのことだが、絵に描いた餅に過ぎないのではないか。20年前の論であるが、絓氏はそもそも日本には欧米のような大学町のようなエリアは存在せず、休日にはガードマンのチェックなしにキャンパスにも入れず、スクールバスがないと通うことすら難しい郊外の大学は地域と共存できないと断じる。
問題なのは、(私立大学が)郊外へ移ったことを合理化するために、多くの大学が「自然」イデオロギーを振りかざし始めることにある。われわれのキャンパスは美しい「自然」に囲まれたすばらしい環境にあるといったコンセプトがそれであり、露骨にそう謳わずとも、近年の新設学部が−「情報」や「国際」とともに−「環境」や「地域」といった名称を冠していることは、そのあらわれと言えよう。しかし、すでに述べたところからも知られるように、「地域」の「環境」と概して調和しないのが、郊外・地方の大学なのだ。日本に大学町を作るのが不可能なら、もう少し、「地域」の「環境」との共存を目指す試みがなされてしかるべきだろう。
(中略) 近年、多くの−主に二流、三流の−大学は、地域とのコミュニケーションと新入生への宣伝を兼ねて、「公開講座」なるものを頻繁に行なっている多くは、その大学に所属する教員が講演することになっている。そのプログラムが電車の中の中吊り等で見るにつけ思うのは、これも概してということだが、そのミエミエの場当たり主義と余りの魅力のなさである。(中略)多少戯画化して言えば、「地域コミュニケーションと地域環境問題における『常民』の生き方」といった、一見もっともらしい陳腐な演題を掲げているばかりなのである。当たり前のことだが、デパートや新聞社系カルチャー・センターが催す公開講座の方がはるかにブリリアントだし、実際−それなりに−成功している。自治体が主催する公開講座さえ、これほどひどくはあるまいというのが、郊外私立大学による公開講座の概ねの水準と言って良い。
この最もプリミティブなレヴェルからも知られるように、日本における大学と地域との関係は、ほとんど救いようのないところにとどまっている。そのことは、冒頭に触れたごとき、休日には後者にロックアウトをほどこして、キャンパスにはひとっこ一人いない、郊外新設私大のあり様が端的に象徴するところであろう。「地域」や「環境」といったネーミングを冠して延命を図っている大学は、まさに、地域と環境のなかで実質的に沈没しようとしているのではあるまいか。少なくとも、かなりの大学がそうであることは疑う余地がないように思われる。
政府が進める地方大学振興法案が、絓氏が述べる「沈没していく大学」の束の間の延命策になってしまわないことを祈るばかりである。