本日の東京新聞朝刊に、神戸女学院大名誉教授で思想家の内田樹氏のコラム「立憲主義廃絶の道」が掲載されていた。
共謀罪の参院審議直前に言われてもという気がするが、日本人の政治への関心を見事に言い当てている。自分にもぴったりと当てはまることであり、当事者意識を常に持ち続けることの大切さと、同時にその難しさを感じた。
共謀罪の法として瑕疵、審議の異常さについては論をまたない。法案成立後、政府は「隣人を密告するマインド」の養成を進めるだろう。思想統制は中央集権的に行おうとすれば大変なコストがかかる。国家財政を圧迫しかねず、今の政府にはそれだけの監視コストを担う覚悟はないだろうから、「市民が市民を監視し、市民が隣人を密告する」システムを作り出そうとするだろう。
私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは間違いなく立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁をめざす一本道なのだが、なぜか「国民主権を廃絶する」と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている。その理由は誰も説明してくれない。
18世紀からの近代市民社会の歴史は、個人の権利を広く認め、国家の介入を制限する方向で進化してきた。にもかかわらず、私権を制限され、警察の恣意的な監視下に置かれるリスクを当の市民たちが進んで受け入れると言っているのである。「彼らは理性を失っている」というのが一番簡単な答えだが、そんなことを言っても始まらない。人が理性を失うときにも主観的には合理的な理由がある。
それは「国民は主権者ではない」ということの方が多くの日本人にとってはリアルだということである。戦後生まれの日本人は生まれてから一度も「主権者」であったことがない。家庭でも、学校でも、部活でも、就職先でも、社会改革を目指す組織においてさえ、常に上意下達の非民主的組織の中にいた。
それは上位者の指示に唯々諾々と従う者の前にしかキャリアパスが開けない世界だった。その意味では、現代日本人は生まれてから一度も「民主的な制度」の中に身を置いた経験がない。だから、私たちが「立憲デモクラシーなどというのは空語だ」と思ってしまうのは経験知に照らせば当然なのである。
日本人にはそもそも「主権者である」という実感がない。だから、「国民主権を放棄する」ことにも特段の痛みを感じない。現に、企業労働者たちは会社の経営方針の適否について発言する必要がないと思い込むに至っている。
それは「上」が決めることだ。それでも平気でいられるのは、経営者のさらに上には「マーケット」があり、経営の適否を過つことなく判断してくれると彼らが信じているからである。「マーケットは間違えない」。これはビジネスマンの信仰箇条である。売り上げが減り、株価が下がれば、どのような独裁的経営者もたちまちその座を追われる。
それと同じシステムが国レベルでも存在する。日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者はただちに「日本の支配者」の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において「米国は決して間違えない」という信ぴょう性は多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている「合理的」根拠なのである。