先ほどから、戦争法案の採決を巡る参院本会議のテレビ中継を見ている。
問責決議や不信任決議など一連の動議が全て否決となり、安全保障関連法案の採決を残すところとなり、各党代表からの最後の主張が続いている。
最初に壇上に立った民主党の福山哲郎幹事長代理の話が、大変印象に残った。集団的自衛権行使が明らかな憲法違反であり、戦争法案と指摘される度に論点を誤魔化してきた安保関連法案の問題点をきちんと浮き彫りにしながら、この法案が決して国民を守るものではなく、立憲主義と平和主義、民主主義を壊すものであり、これからの反対運動を鼓舞する言葉で締めくくっていた。
テレビを見ながら打っているので、文章が変になってしまうが、まあいいだろう。
これからの運動の内実と拡大が問われるのである。
自民党や公明党は外国からの脅威に対しる抑止力と国際貢献を訴えるが、改めてここ十数年の安保関連法案の地ならし的な社会の変化に驚いてしまう。国際協力や国際社会と我々はグローバル社会に対して貢献していくことを何の疑いもなく正しいものとしているが、そもそも集団的自衛権の行使による国際貢献の「国際」とは一体何だろうか。結局の話、国際貢献とは日米安保体制の強化以外なにものも意味しない。
また、小泉政権の頃から続く北朝鮮脅威論や中国敵視論は、マスコミの力であたかも日本の存立を根底から脅かすものだという論理にすり替えられてしまっている。ではこれまで日本が実施してきた平和外交はいったい何だったのだろうか。日本の侵略戦争が引き金となって、日本国家自身が敵を作ってきたのである。それでもまだ戦後数十年の積み上げの中で、互いに歩み寄りながら、草の根交流を繰り返しながら、対話の回路を作り上げてきたのである。その対話の回路の担保となってきたのが、憲法9条なのである。自民党のいう北朝鮮が数百発のミサイルを日本に向けているから、憲法9条を変えて、自衛力を高めるというのは、これまでの日本国憲法に縛りの保証のもとに進められてきた日中、日韓の平和外交の歴史の否定である。
戦後から70年という時間が流れた。
決してこれまでの70年、平和主義、民主主義が万全に機能してきたとは思わないが、まだ自民党の議員の中にある、米国追従ではなく、独立国家としての威厳を保とうというプライドが、結果として米国型の覇権主義とは違う道を選んできた。
先ほどの民主党の福山幹事長代理の言葉にもあったが、曲がりなりにも保守の立場を保とうとしてきた自民党の歴代の内閣の矜恃を踏みにじるのが、安倍政権の正体である。
さて、私には何ができるのか。体調不良が続くが、しっかりと考えてみたい。