絲山秋子『ばかもの』(新潮文庫 2008)を読む。
久しぶりに小説を手に取ったためか、貪るように読み終えた。
雑誌「新潮」平成20年1月号〜8月号に連載された小説である。冒頭は官能小説のようなシーンから始まる。群馬県内の名もない大学を卒業し、やがて「行き場」を失ってしまい、アルコール依存症に陥ってしまう青年の心模様が克明に描かれる。酩酊しながら町を彷徨い歩く青年を通して、「行き場」のない自分探しという泥沼にハマってしまうロスジェネ世代の鬱屈した感情が伝わってくる。後半は、太宰治の『人間失格』のような疲れ果てた恋愛ストーリーへと変わっていく。
短い小説であるが、絲山さんの本領が発揮されたような内容で面白かった。
月別アーカイブ: 2013年10月
「五日市憲法」
本日の東京新聞朝刊に、皇后さんが宮内記者会の質問に「五日市憲法」に強い感銘を受けたとの回答を寄せたとの記事が掲載されていた。
皇后さんは昨年1月に東京都あきる野市の五日市郷土館を訪れ、展示されている草案を視察しており、基本的人権尊重や教育の自由などに触れた「五日市憲法草案」について、「政界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と回答している。
確か、色川大吉氏の本では、この五日市憲法草案は現日本国憲法にも反映されており、米国の一方的な押しつけであると喧伝する自民党の見解は間違っており、日本の民衆から生まれた憲法であると述べられていた。皇后さんがこのように発言するということは、改憲論議そのものの前提となっている「押しつけ」が間違いであり、憲法尊重を重んじるべきだという意向なのであろう。
改憲論議が喧しいなかで、ちょっとした清涼剤の役割は果たすであろう。
- 五日市憲法草案
東京・奥多摩地方の五日市町(現あきる野市)で1881(明治14)年に起草された民間憲法草案。204条から成り、基本的人権が詳細に記されているのが特徴。自由権、平等権、教育権などのほか、地方自治や政治犯の死刑廃止を規定。君主制を採用する一方で「民撰議員ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝(天皇)ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス」と国会の天皇に対する優越を定めている。1968年、色川大吉東京経済大学教授(当時)のグループが旧家の土蔵から発見した。
「熱狂で社会は動かぬ」
本日の東京新聞夕刊文化欄に、若手論客の一人で北海道大学准教授の中島岳志さんの紹介が載せられていた。中島氏の発言を繋げてみると、ちょうど話がつながるので、そのまま引用してみたい。
ネットで調べたところ、中島氏は左派系の『週間金曜日』と真性保守思想を掲げる『表現者』という正反対に位置する雑誌の編集委員を務める変わった人物である。
1932年に財閥や政治家を狙った連続テロを起こした「血盟団」事件にまつわるインタビュー記事である。中島氏は次のように語る。
格差社会が広がり、閉塞した社会状況の中で将来に夢を持てない若者の鬱屈がどんどんたまる…。当時と、現代のわれわれの問題は同じです。
今の日本も政治への不信感が強まっている。アベノミクスで安倍さんの支持率は高いが、ちょっと前までは自民も民主も頼りにならなかった。「決められる政治」という言葉がはやったが、どこに怒りをぶつけていいか分からない不透明な時代が続き、一気に誰か何かを変えてくれという救世主待望論が高まった。それが橋下徹大阪市長の人気につながっていましたね。当時だって、社会を変えてくれという世論がこうした暴力事件や一部の青年将校への過大な期待につながっていたのだと思います。
ナポレオンもヒトラーも民主制の下で選ばれている。全体主義は上からの圧力で始まるのではない。社会が閉塞感を抱える中で、ずばっと言ってくれる人を民衆側が熱狂的に求めます。そんな大衆心理を代弁してくれる政治家が一気に権力を把握する。戦前の日本も世論の熱狂的な支持が軍部の暴走を許しました。
歴史と対話すると言いますが、「これはこんな事件だ」と安易にラベリングするのではなく、いまの自分と地続き、同根の問題と捉えないといけない。それが歴史というものだと思います。歴史を追体験することで、事件と向き合い、いまを生きることの何らかの一歩になる。社会はそんなに簡単に変えられませんから。丁寧にやる敷かない。
『エリジウム』
10年に1度の台風が迫る中、子どもをお風呂にいれてすぐにイオン春日部に駆けつけ、マット・デイモン主演『エリジウム』(2013 米)を観た。
人口増と環境悪化に苦しむ22世紀が舞台である。十分な医療を受けられない貧困層が集まる地球と、怪我や病気が100%再生されて完治する「医療ポッド」が各家庭に配備されたスペースコロニー「エリジウム」の争いが開始される。パワードスーツを着た男たちの超人ばりのバトルシーンや、地球とコロニーを往復する飛行機(?)などの迫力ある映像を堪能した。
最新鋭のアンドロイドに守られたスペースコロニーであるが、いとも簡単に不法侵入を許し、昔ながらの巨大工場のような中央コンピューターシステムが乗っ取られてしまう展開には少々疑問符が伴うが、『水戸黄門』を見ているかのような安心感を覚える作品でもある。
テレビで盛んに強い風に飛ばされないようにと警告がなされていたためか、観客は私一人であった。 鼻を啜っても一人