本日の東京新聞の「こちら特報部」は福島県教組が作成した放射能を考える指導本についての記事と、発達障害被告に求刑を超す判決が言い渡された問題の背景に関する考察の記事であった。
発達障害の方は、約30年間引きこもり生活を送っていた42歳の男が姉を包丁で刺殺した事件で、大阪地裁は求刑16年を4年も上回る懲役16年を言い渡した。被告が逮捕後の検察の精神鑑定でアスペルガー症候群と診断され、「母親らが同居を断っており、被告の障害に対応できる社会の受け皿がなく、再犯のおそれがあり、許される限り長い期間刑務所で内省を深めさせることが社会秩序のためになる」という理由のためである。
この判決について、精神障害者の当事者団体「全国『精神病』者集団」の山本真理さんは「犯罪行為そのものを罰するのが刑法のはず。障害者だから罪を重くするのは、障害自体を罪として罰しているのと同じ。明らかな差別だ」と話す。また、母親らが被告を受け取らない以上、社会に受け皿がないから刑務所へという判断についても「社会の支援不足を障害者個人や家族の責任に転嫁することは、本末転倒だ」と批判している。
さらに、龍谷大法科大学院の浜井浩一教授は「発達障害そのものが重大犯罪の原因ではない。犯罪の多くは突発的。発達障害を理解してもらえないことから生じる『二次障害』が、強い被害念慮(確信はないが、被害を受けていると感じること)などを生み、それが発達障害特有のこだわりと結びついて起こされる。適切な対応によって二次障害をケアすることで、重大な結果を妨げる」と話す。また、「日本の刑事司法は更正や社会復帰を全く考えていない。家族や病院、福祉施設にも見放された時、断らないのは刑務所だけ。困ったときは刑務所へとなる」と批判している。
「発達障害」や「精神障害」についての正しい知識と理解がまずは社会の広い層で求められる。「怖い」「気味が悪い」といった未熟な感情レベルではどうしようもない。「学校の理解がない→卒業後の進路指導がない→働く場や学ぶ場がない→家に引きこもるしかない→家族に押しつけるしかない→全ては本人の自己責任」という負の連鎖が日本社会に根強く蔓延っている気がする。まずは学校現場での理解が先決であろう。
あとがきの「デスクメモ」が印象に残った。東京新聞ならではの慧眼な姿勢が垣間見える文章である。
脱原発の合間に水俣病や障害者差別の問題を取り上げる。ただ、個人的には問題の根は同じに映る。つまり差別だ。脱原発デモの高揚はすばらしい。しかし、ともすれば市民主義とか民主主義といった美辞の間に差別は隠される。泣く人はいつも少数者だからだ。障害者も、福島も孤立させてはならない。