高坂正堯『近代文明への反逆:社会・宗教・政治学の教科書「ガリヴァー旅行記」を読む』(PHP研究所 1983)を読む。
昨日の奥井氏の現代社会論の延長として、「近代」についての考えを深めたいと思い手に取ってみた。この本も少なくとも10年以上は本棚に鎮座していた代物である。
高校時代か浪人生時代に、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』自体は読んだことがあるが、文庫本の解説が難解で、単なる寓話としてしか楽しむことができなかった記憶がある。
この本は、『ガリヴァー旅行記』の本文の引用の仕方も大変丁寧であり、この本だけで十分に作品世界が楽しめる作り方になっている。また、高坂氏の解説も分かりやすく、第1編リリパットの国と第2編ブロブディンナグの国はホイッグ政治への批判に満ちた「18世紀イギリス社会への反逆」と捉え、第3編ラピュタとバルニバービはニュートンを始めとした「自然科学への疑問と不信」、第4編フウイヌム国でのエピソードは人間嫌いのスウィフトの描く「ユートピア」であると述べる。
高坂氏は、特に第3編において、「近代=自然科学」そのものを毛嫌いしたスウィフトの近視眼的な考え方を批判する。しかし、近代の科学技術が人間の際限ない欲望と結びついたときに破壊的な結末を招いた現代においては、評価を変えないといけないと述べる。そして、スウィフトが逆説的に描き出したユートピアが現実的な選択肢に入った現在は、物語の世界以上にあやふやな異常状態であると結論づける。
ごく長期的に見れば不均衡な精神の持ち主であるスウィフトの見解の方が、均衡のとれた皮肉屋ヴォルテールの考えよりも的中するかも知れないのである。彼らから二百年以上たった今日のわれわれは、ときどきそう思わざるをえない時代に生きている。
というのは、近代文明が成功、それもめざましすぎる成功を収めてしまったからである。成功は美徳の悪徳に対する勝利ではない。ある文明が成功するとき、人間の美徳も悪徳も共に巨大な規模に拡大される傾向がある。(中略)人間はすでに述べたように、理性を持った貪欲な動物である。だから人間は発達してきた。しかし、その結果人間はなにをするにも大きな力を持つようになってしまった。スウィフトが嫌った学者がやがて作り出してしまった核兵器のことを考えればそれは明らかであろう。その危険を考えるとき、人間が理性を持った貪欲な動物であることがなんとも困ったものであることが理解されよう。(中略)これだけ人間の数がおびただしく増え、その力と欲望が大きくなったとき、人間がその意欲を十分に発揮して行動すれば、世界はまとまりのつかぬ混乱の場となる可能性がある。
(中略)そうした混乱が訪れた後に来るものとしてひとつの可能性は「馬人間」的な平和である。人々がその欲望を制限し、肉も酒もほとんどとらずに、できるだけ素朴に生き、やたらに世界をとび廻らないようにするという解決方法はたしかに現実化しうる。二人子供を作った後夫婦は交わらないというのは、もっともたしかな人工制御の方法であるだろうし、それに代わる方法の多くは決してより人間的とは言えまい。こうしてわれわれはスウィフトという人間嫌いが近代の始めに近代文明に反抗して描いた暗いユートピアが現実化するかも知れないという可能性を否定することはできない。そうした恐るべき、しかし否定し難いユートピアを描いたところにスウィフトの天才がある。それを現実化させないことは決して容易ではない。