月別アーカイブ: 2012年3月

『愛を殺さないで』

テレビで放映された、アラン・ルドルフ監督、デミ・ムーア主演『愛を殺さないで』(1991 米)を深夜に観た。
警察での尋問と過去の連続殺人事件のシーンが交互に展開され、最後の最後で、そもそもの発端となった殺人事件の真相が明らかになる。
映像で見るよりも、脚本で読んでみたかった作品であった。

『世界を変えた アップルの発想力』

竹内一正監修『世界を変えた アップルの発想力』(成美文庫 2010)を読む。
松下電器からアップルコンピュータに転職した著者が、アップルコンピュータ在社中に見聞きした言葉やサイトや雑誌で目にした言葉が解説を交えて多数収録されている。appleⅠや初代Macintoshの製作販売に携わった人たちの希望に満ちた言葉、ピクサー社で出口の見えない中に希望を見いだそうとする人たちの言葉、そしてipodやnextで希望を現実にすることの楽しさを感じる人たちの言葉、中小企業の社長室の壁に掲げてある標語のような言葉がずらりと並んでいる。

その中で、スティーブ・ジョブズと共にピクサー社を創設したエド・キャットムル氏の言葉が気になった。彼は、少ない予算と限られた時間の中で『トイ・ストーリー』などの製作に携わってきたのだが、彼は時間や予算、人材のがんじがらめの制約があってこそ、クオリティの追求が行われるとし、次のように述べている。

制限を与えられることによって、創造性が刺激される。

この言葉は、ピクサーという特殊な企業だけでなく、広く日本でも有効性を持ちうる言葉だと思う。
話は変わるが、制限や規定を外すことで個性や自主性が生まれるという誤解が日本の教育全般に蔓延している。勉強やスポーツに限らず、いたずらな統一ではなく、一定の枠や規制を設けることにより溢れてくる力や意欲を育てていきたいと思う。と同時に、そうした漲りを見極める勉強もしっかりとやっていきたい。

寝坊

今朝は久しぶりに寝坊してしまった。
7時半過ぎには起きなくてはいけなかったのに、ぱっと目覚めたら8時40分であった。

生徒を連れてマラソンをしていると、津波で破壊されたビルが復旧もされずにそのままの姿で放置されている所に出くわすという奇妙な夢を見た。昨日の新聞で福島県の双葉町や楢葉町の震災直後の町の様子の写真を見たのが原因だったのか。

あの大震災から1年が経とうとしている。
本日、フジテレビのドキュメンタリー番組『ノンフィクション』でも、過去に放映された被災者の生活を追った番組が流れていた。

昨年3月来、私自身も家族が増え心境の変化もあり、振り返れば随分長い時間が経ったと感じる1年間であった。

ここ数日埼玉でも余震が続き、震度3の揺れが津波の苛烈なテレビ映像を思い出させると同時に、近い将来の首都圏大地震への危惧を新たなものにする。

何を考え、何ができ、何をするのか。
考えるだけで、何もできなかった、しなかった1年であった。
観念論的な夢から出ようとしなかった日々であった。
今日の寝坊の原因は1年間の自分の過ごし方であったのか。

さて、もう夢も覚める時期である。次の1年間に向けて、自分自身を少し変えていこうと思う。

『近代文明への反逆』

高坂正堯『近代文明への反逆:社会・宗教・政治学の教科書「ガリヴァー旅行記」を読む』(PHP研究所 1983)を読む。
昨日の奥井氏の現代社会論の延長として、「近代」についての考えを深めたいと思い手に取ってみた。この本も少なくとも10年以上は本棚に鎮座していた代物である。
高校時代か浪人生時代に、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』自体は読んだことがあるが、文庫本の解説が難解で、単なる寓話としてしか楽しむことができなかった記憶がある。

この本は、『ガリヴァー旅行記』の本文の引用の仕方も大変丁寧であり、この本だけで十分に作品世界が楽しめる作り方になっている。また、高坂氏の解説も分かりやすく、第1編リリパットの国と第2編ブロブディンナグの国はホイッグ政治への批判に満ちた「18世紀イギリス社会への反逆」と捉え、第3編ラピュタとバルニバービはニュートンを始めとした「自然科学への疑問と不信」、第4編フウイヌム国でのエピソードは人間嫌いのスウィフトの描く「ユートピア」であると述べる。

高坂氏は、特に第3編において、「近代=自然科学」そのものを毛嫌いしたスウィフトの近視眼的な考え方を批判する。しかし、近代の科学技術が人間の際限ない欲望と結びついたときに破壊的な結末を招いた現代においては、評価を変えないといけないと述べる。そして、スウィフトが逆説的に描き出したユートピアが現実的な選択肢に入った現在は、物語の世界以上にあやふやな異常状態であると結論づける。

ごく長期的に見れば不均衡な精神の持ち主であるスウィフトの見解の方が、均衡のとれた皮肉屋ヴォルテールの考えよりも的中するかも知れないのである。彼らから二百年以上たった今日のわれわれは、ときどきそう思わざるをえない時代に生きている。
というのは、近代文明が成功、それもめざましすぎる成功を収めてしまったからである。成功は美徳の悪徳に対する勝利ではない。ある文明が成功するとき、人間の美徳も悪徳も共に巨大な規模に拡大される傾向がある。(中略)人間はすでに述べたように、理性を持った貪欲な動物である。だから人間は発達してきた。しかし、その結果人間はなにをするにも大きな力を持つようになってしまった。スウィフトが嫌った学者がやがて作り出してしまった核兵器のことを考えればそれは明らかであろう。その危険を考えるとき、人間が理性を持った貪欲な動物であることがなんとも困ったものであることが理解されよう。

(中略)これだけ人間の数がおびただしく増え、その力と欲望が大きくなったとき、人間がその意欲を十分に発揮して行動すれば、世界はまとまりのつかぬ混乱の場となる可能性がある。

(中略)そうした混乱が訪れた後に来るものとしてひとつの可能性は「馬人間」的な平和である。人々がその欲望を制限し、肉も酒もほとんどとらずに、できるだけ素朴に生き、やたらに世界をとび廻らないようにするという解決方法はたしかに現実化しうる。二人子供を作った後夫婦は交わらないというのは、もっともたしかな人工制御の方法であるだろうし、それに代わる方法の多くは決してより人間的とは言えまい。こうしてわれわれはスウィフトという人間嫌いが近代の始めに近代文明に反抗して描いた暗いユートピアが現実化するかも知れないという可能性を否定することはできない。そうした恐るべき、しかし否定し難いユートピアを描いたところにスウィフトの天才がある。それを現実化させないことは決して容易ではない。

『60冊の書物による現代社会論:五つの思想の系譜』

奥井智之『60冊の書物による現代社会論:五つの思想の系譜』(中公新書 1990)を読む。
先月、授業の中で村上陽一郎の評論文の中で、「近代」が出てきたので、しっかりとした「近代」の定義を勉強したいと思い手にとってみた。学生時代に購入したのか、記憶が定かではないが、10年以上も本棚の片隅に眠っていた本である。

現代思想のカテゴリーを「帝国主義論」「大衆社会論」「産業社会論」「管理社会論」「消費社会論」の5つに大別し、それぞれの思想の成立からの流れを、主に欧米と日本の古今の著書を紹介する形でまとめられている。「大衆社会論」の中でプラトンの『国家』が取り上げられていたり、管理社会論の系譜に安藤昌益の『自然真営道』が紹介されていたり、バラエティに富んでおり興味深い内容であった。著者の奥井氏の略歴を読むと、執筆当時32歳である。頭の良い人は若くても文章がしっかりしていると感心してしまった。

話を戻すと、「近代」の定義は、政治的に、経済的に、社会的に様々あるが、西部邁氏の定義が一番簡単ですっきりしていた。西部氏は『大衆の反逆』の中で次のように述べる。

 我が国の近代化というのは、つづめていえば、ヨーロッパの達成を無邪気に模倣することであった。それは適応としての生であって、自由としての生ではない。自由があったとしても勝手気儘の為の自由であって、孤独な自己懐疑に根ざす真の自由ではない。そんな真の自由なぞはむしろ適応の効率を妨げるものだとみなすのが、近代化といわれるものの基調音なのである。

また、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で次のように述べる。

 他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的な自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。
このフロムの意見もなるほどと思うところが多い。アニメ『エヴァンゲリオン』に登場する人物たちの生き方が思い出される。

また、デュルケームの『社会分業論』の中の一節が特に印象に残ったので、孫引きしてみたい。

 自分の仕事にしがみついている個人は、その専門的活動のうちに孤立し、自分のかたわらで同じ仕事をしている協力者たちには関心をよせず、この仕事が共同のものだという考え方すら思いつかないものだ、とみられている。したがって、分業が極度に推進されると、ついには解体の源泉とならざるをえないことになろう。

著者は上記の引用に続けて次のように述べる。

 こうした無規制状態(異常形態、アノミー)の回避のため、1902年に刊行された『社会分業論』の第2版への序文でデュルケームは、同業組合の育成などを説くのだが、そこには、20世紀末の今日にも通ずる問題が認められよう。

自分を含めた仕事のあり方が指摘されていると感じた。デュルケームについてはこれから著書を読んでいきたい。