『60冊の書物による現代社会論:五つの思想の系譜』

奥井智之『60冊の書物による現代社会論:五つの思想の系譜』(中公新書 1990)を読む。
先月、授業の中で村上陽一郎の評論文の中で、「近代」が出てきたので、しっかりとした「近代」の定義を勉強したいと思い手にとってみた。学生時代に購入したのか、記憶が定かではないが、10年以上も本棚の片隅に眠っていた本である。

現代思想のカテゴリーを「帝国主義論」「大衆社会論」「産業社会論」「管理社会論」「消費社会論」の5つに大別し、それぞれの思想の成立からの流れを、主に欧米と日本の古今の著書を紹介する形でまとめられている。「大衆社会論」の中でプラトンの『国家』が取り上げられていたり、管理社会論の系譜に安藤昌益の『自然真営道』が紹介されていたり、バラエティに富んでおり興味深い内容であった。著者の奥井氏の略歴を読むと、執筆当時32歳である。頭の良い人は若くても文章がしっかりしていると感心してしまった。

話を戻すと、「近代」の定義は、政治的に、経済的に、社会的に様々あるが、西部邁氏の定義が一番簡単ですっきりしていた。西部氏は『大衆の反逆』の中で次のように述べる。

 我が国の近代化というのは、つづめていえば、ヨーロッパの達成を無邪気に模倣することであった。それは適応としての生であって、自由としての生ではない。自由があったとしても勝手気儘の為の自由であって、孤独な自己懐疑に根ざす真の自由ではない。そんな真の自由なぞはむしろ適応の効率を妨げるものだとみなすのが、近代化といわれるものの基調音なのである。

また、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で次のように述べる。

 他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的な自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。
このフロムの意見もなるほどと思うところが多い。アニメ『エヴァンゲリオン』に登場する人物たちの生き方が思い出される。

また、デュルケームの『社会分業論』の中の一節が特に印象に残ったので、孫引きしてみたい。

 自分の仕事にしがみついている個人は、その専門的活動のうちに孤立し、自分のかたわらで同じ仕事をしている協力者たちには関心をよせず、この仕事が共同のものだという考え方すら思いつかないものだ、とみられている。したがって、分業が極度に推進されると、ついには解体の源泉とならざるをえないことになろう。

著者は上記の引用に続けて次のように述べる。

 こうした無規制状態(異常形態、アノミー)の回避のため、1902年に刊行された『社会分業論』の第2版への序文でデュルケームは、同業組合の育成などを説くのだが、そこには、20世紀末の今日にも通ずる問題が認められよう。

自分を含めた仕事のあり方が指摘されていると感じた。デュルケームについてはこれから著書を読んでいきたい。

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