本棚の奥から、季報『唯物論研究』(季報『唯物論研究』刊行会 1998.7)を取り出してぱらぱらとながめてみた。
唯物論とは何か、唯物論は人間をどのように理解し、人間の社会行動をいかに解釈するのか。これは季報『唯物論研究』がたえず立ち返り検討しなければならない課題である。
現代の唯物論とは、「唯物論」を公認としたソ連邦が崩壊したことによって「解放された」唯物論のことなのか、それとも資本主義社会の生み出す唯物論の全面的展開のことであろうか。現代日本の社会的思潮は唯物論が当たり前となっているように見える。今あらためて唯物論を論じることが、混沌たる現代世界の未来を見るために、何か寄与するところがあるのだろうか。
編集委員である大阪音楽大学教授の高橋準二氏は論の冒頭で述べているように、「唯物論」の存在意義そのものを問い直すことが求められているようだ。
田畑稔編集長は「唯物論」について「対談 唯物論はどこへ進む」の中で次のように問題を提起している。
われわれが現に入り込んでいる生活諸関係の中で思想の意味を考えないといけないと思います。しかし、かつては、たとえばエンゲルスのいう「哲学の根本問題」のように、人類の始まりにさかのぼってそこから一貫して唯物論と観念論に対立があるんだという形の処理の仕方になっていたのではないか。こういうことを反省の基礎に置いて、弁証法的唯物論にはどういう意味があったのか問い直す必要がありましょう。
弁証法的唯物論(マルクス主義的実践哲学)が市民社会の唯物論(資本主義を支える物質主義)に負けたことは明らかな事実であって、海の向こうで負けただけじゃなくて、日本でも負け、われわれの内面でも負けているわけですから、そこはきちっと認めたうえで、唯物論というものの可能性・現在の在り方・批判する方向が問われているのではないか。僕自身はかなり前から、自己反省的に感じていたことなんです。
(中略)マルクスは「新しい唯物論」という形で市民社会の唯物論に対する批判を対置して行くわけですけれど、新しい唯物論という形で行くのか、それとも新しい唯物論にはならないのか。この辺りが唯物論の今日的課題でしょう。
ここで論じられている「唯物論」とは、観念論や唯心論を退け、人、物、金の動きから社会を構造的に見つめ、その生成過程を根本的に変えていくという運動としての理念である。その大元の理念が揺らいでしまっているので、実践主義の運動がうまく回らないと問題視されているのである。しかし、こうした理念と実践の問題は、「卵が先か、鶏が先か」と同じで、結論が出ないものである。観念としての「唯物論」論争に陥ってしまっている感が拭えなかった。