本棚を整理していたら、本の山の底から、フォーラム90’s編集『月刊フォーラム』(社会評論社 1995年12月号・通巻64号)という学生時代に購読していた雑誌が顔をのぞかせた。
しばし立ち読みをしていたところ、当時原子力資料室を運営していた高木仁三郎氏の「古い時代に始末が付けられるか?」と題した文章が目に留まった。その中で、高木氏は次のように述べる。
(ヨーロッパは90年代以降、脱原発に傾いており、日本も大規模な原発の新規増設は見送っている。一方でプルトニウム利用や、日本のアジアへ原発輸出などの問題も起きている現状の紹介)
この状況をまとめると、ひとつの時代の終わりにきている状況ははっきりと見えていて、われわれはその状況をつくり出すのにある程度貢献してきたと言ってもよいのではないかと思う。ところが、なかなか、新しい時代が見えない。(中略)問題は、この時代の終わらせ方なのである。世界は、400もの原子炉とそれと同じくらいの核施設(軍事・民事)をどう解体処分できるのか。原発からでてくる、何十万トンという使用済み燃料(その中に含まれている放射能)を一体どこに処分できるのか。解体核兵器からの核物質はどうか。これらをすべて大事故につながらないように始末できるだけのエネルギーと技術と工業と、そして何より技術者を世界は備えているのか。もっと大きいのは、核権力を中心に強大に築き上げられてしまった官産軍学のコングロマリットとその下で長年にわたって人間を虜にしてしまった冷戦型思考方法がなかなか解体できないこと(フランスが核実験を諦めきれないことに見られるように)である。
この問題は、ひとり核の問題ではなく、政治、思想、社会、文化のすべての面で言えるのではないかと思う。今の日本の政治・運動状況を見ても、古いものの終わりは見えたが、それに本当に始末を付けて新しいものに移行する、始末の付け方が誰にも見えていないし、そうした問題意識を持って本当に努力している人は実に少ないと思う。この点で多くの人に注意を喚起したい。
16年前の文章であるが、現在の東日本大震災以降の原発事故を予見したような内容である。「原発事故は100万年に1回」という原子力を推進する側の宣伝に見事にだまされ続けた国民、そして私自身の姿が見えてくる。高木氏が最後に述べる、「この問題は、ひとり核の問題ではなく、政治、思想、社会、文化のすべての面で言えるのではないかと思う」という一節が特に印象に残る。