本来の平和主義

本日の東京新聞夕刊に、神奈川大学経済学部定員外教授の的場昭弘氏が文章を寄せている。一部を引用してみたい。

日本の置かれている現況は、ひょっとするとナチスの侵略に遭遇したフランス第三共和制に似ているかもしれない。第一次大戦で多くの人命を失ったフランスは、軍備を増強させる隣国ナチスに対し、ひたすら消極的平和主義をとらざるをえなかった。自国民の死を恐れるあまり他国の軍備増強に無批判になったのである。

夭折したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、『根をもつこと』という作品の中で、本来の平和主義は死ぬことへの憎悪ではなく、殺すことへの憎悪であり、フランスでは、それが死ぬことへの憎悪だけになってしまったと批判している。(中略)
翻って、戦後わが国の平和主義支えたのも、殺すことへの憎悪ではなく、死ぬことへの憎悪ではなかったか。世界中で拡がる殺戮の嵐に対して、自国民を殺さなかったことは一つの成果だったとしても、殺戮に対する義憤をもち、積極的に行動を起こさなかったとすれば、それは本来の平和主義を歪めるものではなかったのだろうか。

平和主義という憲法の基本原理が、死ぬことへの憎悪の上に成り立つとしたら、それは国家を内向きにさせ、外に向けて何かを発信する勇気を欠如させてしまうだろう。

殺すことへの憎悪を知らない国家には、国家としての威厳も独立もない。したがって、他の国民の命のみならず、自国民の命にも関心をもたない。こうした国家が自国民を守ることはおそらくないであろう。それこそ、侵略あるいは災害を起こす殺戮におののき、国民に背を向け、ひたすら国民の犠牲の上に国家の延命のみを図るであろう。

実は戦前の日本は、死ぬことへの憎悪をもたなかった国家かもしれないが、殺すことへの憎悪も知らなかった国家であった。戦後の日本は、平和主義を主張しながら、結局平和の実現は他人任せにして、殺すことへの憎悪を知らず、死ぬことのみを憎悪する国家体制に変わっただけであった。こうした国家に国民を守ることを期待しても、それは不可能というものである。

どんなに民主的な体制であっても、国家の危機においては、その民主性は一時停止せざるをえない。それが独裁へと至らないのは、殺すことへの憎悪があるからである。

的場氏は、「平和」というお題目を唱えていただけの日本政府や市民運動、左翼運動全般に通底する観念論に疑問を呈している。一方で、「殺戮に対する積極的な行動」「外に向けて発信」という見解は、一歩間違えると、お節介な米国的平和主義の二の舞になってしまう危険性もはらんでいる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください