本日の東京新聞夕刊に、東京都葛飾区のビラ配布事件の最高裁判決の記事が掲載されていた。この事件は2004年に、共産党を支援する僧侶が、マンションに都議会報告のチラシを配布しに立ち入ったところ、住居侵入罪で現行犯逮捕され、23日間も身柄を拘束されたという、極めて後味の悪いものであった。
このマンションには広告のチラシも多数投函されているにも関わらず、住民の通報があったというだけで、共産党のビラ配布のみが、「表現の自由の公使のためでも、マンション管理組合の意思に反して立ち入ることは、生活の平穏を侵害する」との理由で処罰されている。
被告の僧侶は「私が有罪なら、チラシや広告を配ったり、宗教の勧誘をしたりしても犯罪になってしまう。最高裁は現実を見ていない」と話している。
判決の中で、最高裁(今井功裁判長)は、「表現の自由は特に重要な権利として尊重されなくてはならず、ビラ配布は表現の自由の公使」と認めた上で、「憲法は表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく、思想を発表する手段であっても他人の権利を不要に害することは許されない」と指摘している。
少々古い話になってしまうが、今から15年前の1994年に、六大学野球が行われる神宮球場で、「早慶戦天覧試合」についてのビラを撒こうと敷地内に足を踏み入れただけで、強制的に逮捕されるという事件があった。この事件などは、近所の住民も散歩をしている敷地内であるにも関わらず、「建造物侵入罪」に問われるという「違憲」以外何ものでもないものであった。
百歩譲って、葛飾区のビラ配布事件の「表現の自由を認めた上でのマンション住民の権利の侵害」が正当であるならば、その裏返しとして、最高裁は公道や公の場における表現の自由をきちんと擁護するべきである。「他人の権利を不要に害すること」こそが無制限に拡大解釈されてしまっては、表現の自由という憲法の根本理念が「庇を貸して母屋を取られ」てしまうことになる。