横森理香『エステマニア』(幻冬舎 1995)を読む。
「チビでデブでブスで銀歯で額縁メガネ」な私が、キレイになって男性や家族に振り向いてもらえるように怪しげなエステや化粧品に手を出しては次々に失敗していくという内容の小説である。前半は、通信販売の「楽して痩せる」ダイエット商品に騙される失敗談などが続くコメディとなっている。しかし、後半に入ると、主人公は、痩せてキレイになっても、金持ちの男性に愛されても、仕事が成功して安定した生活を手に入れても、幸せになれない「女」の哀れさ、引いては「女」という身のはかなさを嘆じるようになる。『源氏物語』のヒロイン紫の上にも通じるような、男性に振り回されるだけの女性の生き方に対する哀れみが描かれる。
物語の最後で主人公の「私」は次のように述べる。
(中略)男は多かれ少なかれ、セックスの対象となる「女」は、何も考えていない綺麗なだけの、お人形さんじゃなきゃ嫌なのだ。
人形の体がヘンな形をしていたり、太っていたり、毛穴が拡張してたり、ニキビ痕やアザがあったり、手足に毛が生えたりしてちゃいけないから、男はそれに文句をつけるし、男の代弁者である女たちにも文句をつける。そして女たちは、自分自身がより人形に近くなるように、奔走する。
人形になればなるほど、男から性的な快楽は与えられるが、私の中の「人間」は、ぼろぼろに傷ついていくのだ。
男の意識に合わせて痩せて、「女」として使えるようになると、自分の中の「人間」が死ぬ。太って人間らしく生きられるようになると、今度は自分の中の「女」が死ぬ。そして自分の中の「女」に対する未練が捨て切れないうちは、苦しみ続けなきゃならない。
あとがきの中で、作者は次のように述べ、この作品の主人公の生き方に解答与えている。『源氏物語』でなぜ紫の上が恵まれた生活を捨て出家してしまったのか、という疑問に対する答えも書かれている気がする。
歳をとり、「女」でいることだけがアイデンティティではつらすぎる。大人になったら、人は誰しも、自分で自分を食べさせることのできる、仕事を持つべきなのだ。
とりあえず、一人でも生きられる、自分には、「女」でいること以外の何かがある、という自信は、私たちをセクシャリティの檻から、少しずつ解放してくれるはずだ。
カタチだけにこだわる世界からは、早く抜けたもん勝ちなのだ。美意識なんて人それぞれでいい。多くの人の思うところの美意識に縛られ、一生を囚われの身で、過ごすことはないのである。
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