立正大学のパンフレットを読む。
大学名の由来は、諸経、諸宗を『法華経』のもとに統一して正法を広めるべきことを主張した日蓮の著した『立正安国論』にちなむ。
1580年に現在の千葉県八日市場に創設された日蓮宗の教育機関が起源となっている歴史ある仏教系の大学である。前身は1904年に品川区大崎に設立された日蓮宗大学林である。49年に仏教学部・文学部、50年に経済学部、67年には経営学部を開設している。また、81年には熊谷キャンパスに法学部、96年に社会福祉学部、98年には地球環境科学部が設置されている。しかし、大学都心回帰の流れであろうか、2005年以降、大崎キャンパスが再整備され利便性が高まっている。
哲学科があるためだろうか、分かりやすいキーワードで学部学科の特徴がつかめるようにパンフレットに工夫が凝らされている。
いくらいい教授と教育内容がそろっていても、キャンパスの地の利が学生生活を大きく左右すのは否めない。山手線の駅から歩いて5分の大崎キャンパスと熊谷駅からバスで10分の片田舎の熊谷キャンパスでは比べるまでもないだろう。熊谷ではスポーツ以外刺激のない学生生活が待っていることだろう。2つのキャンパスを結ぶ遠隔授業も宣伝されているが、おそらく大して使われることはないと思う。
硬式野球、サッカー、ラグビー、吹奏楽、合唱に力を注いでいる。
パンフレットを読みながら、15年ほど前の学生時代に、フランクフルト学派研究で知られる清水多吉氏を訪ねて大崎キャンパスに出かけた時の思い出がふとよみがえってきた。
月別アーカイブ: 2009年10月
『オーガズム・ライフ』
杉本彩『オーガズム・ライフ』(KKロングセラーズ 2004)を読む。
あまり芸能人は詳しくないのだが、著者の杉本さんをテレビで見ていて、独特な発言が気になって手に取ってみた。自由な性のあり方、女性がドキドキする結婚のあり方、理想的なセックスなど刺激的な発言が続くエッセーとなっている。
セックスって、ファンタジーの世界を描くことだと思う。いろいろとエロティックな筋書きを頭の中で描いて、それをお互いに演じながら、二人でストーリーを作り上げていく。
結婚することによって失うものや見えなくなるものはたくさんある。たとえば、刺激や緊張感、甘いムードなどなど。二人に とって大切なものが失われるくらいなら、何も結婚という形をとらなくても、常にお互いの気持ちを確かめ合えるような関係を、ここのカップルが築きあげれば いい。いい意味での緊張感を失わせるような結婚に、私は魅力やメリットを少しも感じないから。(結婚相手は)健康な肉体を持っていれば、言うことはない。健康でなければ一緒に人生は楽しめない。それに精力的な人でなければ、女の欲求を充たすことはできない。恋人であるからには、肉体的な交わりは絶対不可欠だから。
SM指向の男性には、どこか女性的な感性が必要だし、女性の場合は逆に男性的な部分が必要。そして、両方に必要なのは、ある程度のインテリジェンス、つまり想像力。これがなければSMを楽しむことはできない。
『私は障害者向けのデリヘル嬢』
大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』(ブックマン社 2005)を読む。
タイトル通り、とある地方都市で、「障害」者専用のデリヘルを経験した著者が、仕事の思い出や店や社会に対する疑問を述べる。論としてまとまってはいないが、「障害」者の性欲という、健常者にとって二重に関わりにくいテーマに、現場の一女性の立場で向き合っており、大変興味深い内容だった。
「これが一番のリハビリになるんだよね」というように、回を重ねるごとに、少しずつだが身体が動くようになってきたのだ。最初の頃、ほとんど動かなかった右手が私の胸を触るために動くようになってきたし、服の着脱のときも、お尻を浮かせたり、寝返りを打たせるときに、今までは私の力だけだったのが、本人の意志と力も加わって、横に向けるのが少し楽になったり。
食欲、睡眠欲と同じように性欲は、人間の三大欲求のひとつなのだとあらためて実感した。性欲が刺激され、解消されれば、何かが変わっていくのかもしれない。障害者の人たちに、障害がコンプレックスであると思わせない世の中、そういった環境は、どうすれば作れるのだろう? 今、国でやっている福祉的事業だけでは、特に恋愛や性の問題というのは、永遠に置き去りにされてしまう気がするのは、私だけだろうか。
本日の東京新聞夕刊から
本日の東京新聞夕刊の文化欄に精神科医の野田正彰氏へのインタビューが掲載されていた。
第二次世界大戦中、日本がアジアの人々を虐げた事実を告発し、今なお被害に苦しむ人の叫びをとりあげた近著『虜囚の記憶』(みすず書房)についてのやりとりである。
著書の中に次のような記載がある。
侵略戦争についての無反省だけでなく、戦後の六十数年間の無反省、無責任、無教育、歴史の作話に対しても、私たちは振り返らねばならない。戦後世代は、先の日本人が苦しめた人びとの今日に続く不幸を知ろうとしなかったことにおいて、戦後責任がある。
そして、著者は記者の問いに次のように答える。
日本の社会全体が、過去を見つめるというのがどういうことか分かっていないですね。個人のことに置き換えれば、自分がなぜ失敗したのかを考えることは大事だとみんなが言います。でもそれが社会のことになるとなぜ”否認”の方が価値があるのか。
そして、野田氏は読者に次のようなメッセージを伝えている。
社会というのは広い意味で文化を継承していますから、文化を変えていくにはよほどの努力をしないといけない。自分の生きている社会が行ってきたこと、しかもそれを反省せずにいるのに連綿とつながって、自分もまたその中で教育を受けて生きている。それに気付かない限り、平和の 問題を自覚するのは難しいというのが、私の経験に基づく一定の結論です。