書評
梅本富子『私の樺太、そしてサハリン』(三九出版 2007)を読む。
タイトルの通り、1945年8月15日に樺太の豊原で敗戦を迎え、同じ地にずっと暮らしながら、日本統治下の「樺太」からソ連の支配する「サハリン」へと故郷がぐらりと変わり果ててしまう激動の時代を振り返る。
日本政府がポツダム宣言を受諾し戦争が一応の終結を見てから今夏で62年を数える。靖国神社参拝や過去の戦争責任など政治的な話題はたびたび蒸し返されるが、個人個人の悲惨な戦争体験は語り継がれることなく風化されていく一方である。毎年8月は戦争にまつわるドラマやドキュメンタリーなどがテレビの画面を賑わすが、戦争を直接体験した著者は、それらの番組に接する度に「それは違うんじゃない?」と違和感を感じることがあったということだ。そこで、真実の歴史が知りたいと思うと同時に、戦争で彩られてしまった女学生の多感な時期に感じた本音や、国家の壁を越えた交流の思い出を残しておきたいと筆を執ったということだ。
南樺太の西海岸北部の恵須取で生まれた梅本さんは、自身の入院生活の経験から医者になることを志す。1942年、12歳の春に豊原にある樺太庁豊原女学校に入学する。ちょうど時同じく1941年の冬から太平洋戦争が始まったが、米国とソ連の覇権がぶつかる緩衝地帯となった南樺太は空襲とは無縁であった。学徒動員や配給など戦時の雰囲気を肌で感じながらも、将来への夢を持ち続けることができた女学生生活を梅本さんは懐かしく振り返る。
しかし、樺太の悲劇は、本土が終戦の詔で歓喜の渦に包み込まれた1945年の8月から始まる。1945年8月8日、原爆の成功によって米国優位に戦後の枠組みが形成されるのを恐れたソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して樺太に攻め入る。そして国際条約を無視し、ポツダム宣言受諾後も市民への機銃掃射や強制労働を行う。沖縄以上の悲劇が戦争終結後の樺太でくり返されたのである。本土では戦後の復旧に向けた明るい未来が語られ始める一方、樺太は名前をサハリンに強制的に換えられ、日本政府から半ば見捨てれる土地へと変わり果ててしまう。梅本さんもソ連軍の軍事弾圧によって医者になる夢を諦めざるを得なくなってしまった。
ソ連軍が進駐後、梅本さんはある日、左手に手術を要するほどの大火傷を負ってしまう。知人を介してソ連軍将校のニコライは歩けない著者を抱き上げ、肩を抱くように励まし、親身になって世話を焼いてくれた。以後著者はニコライとダンスホールやコンサートに誘うニコライに著者は淡い恋心を抱く。しかし、ニコライは半年間の特殊任務を終え「サヨナラのキス」を著者の唇に残してウラジオストクへ帰国してしまう。その当時の感懐を梅本さんは次のように述べる。
けれど彼は、私にとって絶対許せない国の人、しかも将校。ソ連は理不尽なやり方で樺太を攻め、奪い、大勢の人を傷つけ、殺した。私も大切なものを失った。どんなにソ連を許せないと恨んでいることか。でも国と人は違うんだろう。私はニコライを憎らしいと思ったことは一度もない。
著者の心には、ソ連政府に対する憤怒の気持ちと、ニコライに対する情愛の気持ちが複雑に入り交じる。日本人は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺にある通り、「北朝鮮が憎けりゃ朝鮮人も憎い」と一事が万事に物事を推し量ろうとし、極めて一面的な評価に流されやすい。しかし、梅本さんは自分が生まれ育った故郷と故郷で暮ら人たちへの思いとその故郷を破壊したソ連国家をしっかり見分けようと努める。国家と国民がイコールで結ばれないモザイク国家が林立するこれからの国際社会において必要な社会観がそこにはある。そして、最後に故郷に対する思いを次のように語る。
樺太は私が生まれ育った思い出の沢山ある思いの強い地。しかし帰ることのできない故郷となる。故郷ではなくなる。二度と戻れないこの地は、許せないソ連サハリンなのに離れ難い複雑な思いがあった。少し前この地で小さな希望を見つけたこと。あんなに私のことを思ってくれているアンナさん一家そしてミハイル。私が日本に帰ったら何もかもがすべて永遠の別れになるだろう。
戦争から60年経た現在でも北方領土問題のこじれなどからロシア(旧ソ連)とは平和条約が結ばれていない。ソ連サハリンは、梅本さんが帰国した折りに感じたまま日本から近くて遠い国のままである。過去の戦争を真摯に振り返り、多面的に世界を見る力を培うという始めの一歩を踏み出していくことから、その距離は徐々に埋まっていくのではないだろうか。これから歴史を勉強し社会に巣立っていく中学生、高校生に手に取ってもらいたい一冊である。